スラブ・ユーラシア研究センター図書室
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エストニア共和国国会の議事録

所蔵資料の解説

エストニア共和国国会の議事録

百瀬 宏

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この資料は両大戦間のエストニア共和国国会の議事録とその付録(法令集)です。内容的には、1917年から1919年にいたる国民会議の議事録(1917年7月1日~1919年2月6日)、憲法制定議会議事録(第1会期:1919年、第2~5会期:1920年)、エストニア第一国会議事録(第1~4会期:1921年、第5~8会期:1922年、第9会期:1923年)とその付録法令集、第二国会議事録(第1~2会期:1923年、第3~6会期:1924年、第7~9会期:1925年、第10会期:1926年)、第三国会議事録(第1~2会期:1926年、第3~4会期:1927年、第5~7会期:1928年、第8会期:1929年)とその付録法令集、第四国会議事録(第1~2会期:1929年、第3会期:1930年、第4~5会期:1930年、第6~8会期:1931年、第9会期:1932年)とその法令集、第五国会議事録(第1会期:1932年、第2会期:1932、33年、第3~4会期:1933、34年、第5会期:1934年)とその法令集のほか、1925年1926/27年から1931/32年にわたる年次予算、『国営企業及び国家事業基金予算書』(1929年1930~30/31年)、『銀行、国営企業、国家事業等予算書』(1931/32 1932/33年、1933~1933/34、1934~1934/35年、『土地改革基金予算書』(1930/31)、『関税基本法』を含んでいます。

ロシア帝国の支配下にあったエストニアは、1917年のロシア帝国の崩壊を好機として、同年4月にペトログラードで4万人が参加するデモによってロシア臨時政府にエストランドとリヴォニア県北部在住エストニア語使用住民とを単一の自治単位として認めさせ、5月には国民軍を結成、さらにMaaraevと呼ばれる議会を選出しました。11月のロシア十月革命で樹立されたソヴィエト政権下で行われた憲法制定議会の選挙では、ボリシェヴィキ党がエストニアで39パーセント〔戦火に疲弊したリヴォニア南部(ラトヴィア語使用住民が住居)では72パーセント〕の得票率を得るという事態があったのち、エストニアではMaaraevとボリシェヴィキ権力が並行して存在するという状態になりましたが、11月28日には後者が軍事行動によってMaaraevを解散させるにいたりました。しかし、エストニアのボリシェヴィキ権力が、非ボリシェヴィキ勢力がこぞって支持しレーニンも好意的に反応した独立宣言案を拒否し、バルト・ドイツ人貴族の土地を農民に分配せず集団農場化を図るなどエストニアの民心を離反させる中、ドイツ軍がボリシェヴィキ軍の形ばかりの抵抗を排除してエストニアを占領、Maaraevの地下組織は1918年2月24日にエストニアの独立を宣言しました。1918年11月にドイツが連合国側に降伏してのち、ボリシェヴィキ勢はふたたびエストニアに入り、ナルヴァ市を占領して11月28日にエストニア労働者コミューンの樹立を宣言、タリンに陣取るエストニア共和国政府との内戦が始まり、一時は前者がエストニア国土の3分の1を占領するという局面もありましたが、イギリス軍の応援も得るなど三つ巴、四つ巴の乱戦の果てに1919年6月23日、後者が「勝利の日」を祝うにいたりました。ところで、ここでこれに先立ち、同年4月にエストニア憲法制定議会の選挙が行われていますが、その以前2月6日までが、先に挙げた「エストニア国民会議」の時期というわけです。

さて、新たに選出された憲法制定議会は、1919年5月19日に「エストニアの独立と主権の宣言」を行い、1918年2月のMaaraevの独立宣言を再確認しました。ついでエストニアは、1920年にソヴィエト・ロシアとタルトウ講和条約を結び、1921年1月に欧州列強から法律上の承認を獲得しました。また、これより先、1920年6月15日にエストニア共和国憲法が制定されました。同年、エストニアの国会選挙が行われて第一国会が成立し、ここから国会議事録が始まります。エストニア共和国の政治は、その後も波瀾に富んだ経過を辿りました。1934年1月24日に大統領に強大な権限を与えた新憲法が発布され、エストニアの通常の意味での議会制民主主義の時代は終わりを告げました。当該資料集のエストニア国会議事録もこの時点で終わっています。

国会議事録は、普通誰でも見ることができ、歴史研究の上で特別な資料ではありません。しかし、外国史を研究しようとする時、それが自国にあるということは二重の意味で重要な意味をもちます。第一に、その国に行かないかぎり見ることができない場合が多いでしょう。第二に、特別な資料は、実は、その国では常識になっているような周知の事実を踏まえて初めて、これを評価できるものでしょう。国会議事録などは、その最たるものといえましょう。ところで、エストニアのようなわが国に基礎的な文献すらまったくない所では、その「周知の事実」を知ろうと思ったら、六本木の外交資料館に行って当時の在外公館報告 - それも大抵はかなりお粗末な - を読むより仕方がないでしょう。本資料はその意味で、今後本格的なエストニア研究者がわが国で育つ上での絶対不可欠な工具といえましょう。


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