スラブ・ユーラシア研究センター図書室
Library, Slavic-Eurasian Research Center

library-news-2014

【2014年】

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東京大学情報学環旧蔵新聞の一部保管 [no.139(2014.11)より]

本年7 月下旬、東京大学情報学環社会科学情報センター名で、耐震改修工事に伴う新聞原 紙(消耗品)の廃棄についての連絡が回付されてきました。
添付のリストには、171 タイトル、5,961 冊の外国新聞が列挙され、重要であっても現在は入手困難とおぼしきものがいくつもあるもようです。しかし、新聞の保存と利用の両立はなかなか難しく、そもそも書庫の確保から難しいため、あまり手を広げることはできません。 結局、本学の所蔵状況やニーズを考え、若干の新聞の移管先として手を上げたところ、以下の新聞原紙の移管を受けることになりました。
Заря Востока (Тбилиси) 1955.2-1968.12 28 冊
(北大所蔵は1981-1988(マイクロ)、990(原紙))
Литературная газета (Москва) 1965.1-1968.12 5 冊
(北大所蔵は1929-1941, 1944-1960(以上マイクロ)、1946-1955, 1974-2013(以上原紙))
Новое время (Санкт-Петербург) 1917.2-1917.10 4 冊
(北大所蔵は1888-1916.10(マイクロ))
Сельская жизнь (Москва) 1964.9-1968.12 9 冊
(北大所蔵は1997-2000, 2003-2007(マイクロ)、1991 以降購読中(原紙))
Труд (Москва) 1964.9-1968.12 9 冊
(北大所蔵は1921-1930, 1997-2007(以上マイクロ)、1990-2013(原紙))
計、5 タイトル、55 冊
このほか、いくつかのタイトルについて、手を挙げたものの先客ありということで来なかったものがあります。上記の資料はこの10 月、北大附属図書館に到着しました。残りの資料の運命については承知しておりませんが、ここに含まれる重要な資料は、それぞれ新しいよい住処を見つけていることを願い、期待しております。[兎内]


au WiFi Spot の設置 [no.139(2014.11)より]

大学の情報ネットワークは、運用方針上不特定多数の人に提供することができず、一時的な訪問者についても登録が必要です。こちらがWifi の機器を導入して公衆利用できるように設定するのは容易ですが、そこで発生したパケットを大学のLAN に流すことはできません。登録していない人のパケットは、大学の情報ネットワークの外を通す必要があるのです。
電子ジャーナルやオンライン・データベースの利用など、大学のLAN に接続していないと使えないサービスはいろいろありますが、それはとりあえずなしでいいので、ネットにつなげたいという需要に(少しだけ)応えるため、この7 月、センターはKDDI 社に依頼してau Wi-Fi Spot を設置していただきました。
au のスマートフォンの契約者が利用できるほか、ワイヤ・アンド・ワイヤレス社に申し込み、短時間使用の契約をすることもできるようです。[兎内]

 

--------------------参謀本部作成樺太2万5千分の1地形図について[no.138(2014.8)より]

スラブ・ユーラシア研究センター図書室は、最近、戦前から戦中にかけて参謀本部等が作
成した南北樺太の2 万5 千分の1 地形図の一部を入手することができましたので、お知らせします。
この地図は、おおまかに分類すると、次の3 つのグループから成ります。
① 南樺太の北緯50 度国境線付近の「二万五千分一地形図」。昭和17 年(1942 年)の空中写真測量によるので、右欄外には「軍事極秘応急図」および「本図ハ速ニ軍ニ供スル為
図上整理未了ナルモ応急印刷ニ附シタルモノナリ」と注意書きが付されています。当時
の日ソ国境線とその一列南側の大半に当たる(3 枚欠)28 枚のセットです。
②「 北樺太二万五千分一図」。右欄外に「軍事極秘」、左欄外には「昭和十五年測量(関東軍測量隊)同十六年製版(陸地測量部)」と記載されています。場所は、「バイカル湾近傍」2 枚、「エホビ湾近傍」2 枚、「オハ近傍」7 枚、「ルイコフ近傍」4 枚、「アノール近傍」6 枚、「亜港近傍」3 枚の全24 枚。ただし、測量時の条件が不良のためか(敵国ではないにせよ、関係の微妙な外国領土に飛行機を飛ばして測量したのでしょうから)、図幅のそこかしこに大きな空白がみられます。
③「 二万五千分一図オハ及バイカル近傍」。測量がおこなわれたのは北樺太の「保障占領」期である大正13 年(1924 年)で、薩哈嗹州派遣軍司令部、陸地測量部、参謀本部の名で昭和元年(1926 年)に発行されたものです。全部で8 枚から成りますが、各図の表
示から、もともと8 枚のセットとして製作されたものと思われます。
戦前の日本が作成した樺太2 万5 千分の1 地形図について、これまで北海道大学では現物
を所蔵しませんでした。科学書院からは『樺太二万五千分の一地図集成』として2000 年に復刻版が出ています。今回入手した地図をこの復刻版と照合したところ、①と②は、これにすべて収録済みですが、③については未収録のものであることがわかりました。
こうしたことから、今回入手した全60 枚は、今後のサハリン・樺太史研究に役立つとともに、外邦図研究の空白を(若干とはいえ)埋めるものと期待されます。
なお、これとは別に、センター図書室は、国土交通省国土地理院よりご寄贈いただいた南
千島の2 万5 千分の1 地形図、計56 枚を受入しましたことをお知らせします。これは、択捉島と色丹島の全体、および国後島の北部をカバーします。
同封いただいた文書によれば、同院は、2010 年から2012 年にかけての4 回にわたって北
方四島の全体をカバーする2 万5 千分の1 地形図76 枚を刊行し、ウェブサイト上では、当該の部分がすでにこの2 月末から公開されているとのことです。[兎内]

 

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『カフカス集成 Кавказский сборник』(1876-1912) リプリント版の購入[no.137(2014.5)より]

2013 年度にセンター図書室がリプリント版を購入した『カフカス集成』は、「60 年に亘り甚大な犠牲を払い、帝国の精神的・物質的資源に極限まで緊張を強いたカフカス戦争という雄大な時代を詳細に研究する必要性」(第32 巻第1 部巻頭)から、カフカス総督ミハイル・ニコラエヴィチ大公(1832-1909)の指令で1876 年に創刊、1912 年に第32 巻を出して停刊した年報である。編集長は、チフリス(トビリシ)に置かれたカフカス軍管区参謀部の戦史課の長が務め、19 巻(1898 年)まではチェルニャフスキー、20 巻(1899 年)から30 巻(1910 年)までヴァシリー・ポット(彼は1870 年代にはオレンブルグ地方で勤務していた)、31 巻(1911)から32 巻第1 部までヴラジミル・トムケエフ、32 巻第2 部はスピリドン・エサゼ(1870-1927)だった。19, 20, 21 巻に過去20 巻分の目次に加え、人名・地名・部隊の索引もあるので、利用者はまずこれらの巻から概要を知ることができる。また、『カフカス集成』復刊第1 号(2004)の巻末には、1-32 巻の総目次と索引が収録されている。
『カフカス集成』は、その刊行目的にあるように、1780 年代末から1870 年代の南北カフカスで展開された戦闘に参加した軍人の記録を中心に、カフカス戦争とその周辺に関わる史料と研究を収録するものである。とりわけ、北東カフカスで展開された対シャミール作戦については詳細で、モシェ・ガンマーのMuslim Resistance to the Tsar やThe Lone Wolf and the Bearでも記述の軸となっている。カフカス戦争を現場で指揮した「ロシア人」将校たちの中にグルジア人やアルメニア人が少なからずいたことはよく知られている。『カフカス集成』には、これらの「ロシア人」たちの経歴や人脈を新たな観点から照射する材料に事欠かない(例えば、26-29 巻にあるグルジア貴族Иван Гивич Амилахвари の記録にはロリス= メリコフの名がしばしば出てくる)。また、ダゲスタンの平定は、テュルク系のクムィク人有力者を主に味方に付けながら遂行されたことが確認できる(例えば、12 巻のАгалар-бек やАлхаз-Гусейн)。
帝国とは何かを考える時、戦史は不可欠だが、日本のロシア史研究ではこの点はまだ十分
に意識されていないように見える。『カフカス集成』のもつ今後の研究を展開する上での可能性として、管見の限り、ひとまず以下の三点を挙げておきたい。まずクリミア戦争の見直しである。この戦争の敗北でロシアは後進性を自覚し、大改革を始めたというのが定説である。
しかし、当時のロシアは、黒海東岸、峻厳なカフカス山脈、カスピ海西岸で激烈な戦闘をすでに数十年続け、その上でクリミア半島に軍を展開したのである。こうした驚異的な軍隊の展開能力と「後進性」との関係は問わなければならない。『カフカス集成』は、カフカス戦争とクリミア戦争を連続的に見る材料で満ち溢れている。第二に、対オスマン・対イランの戦争とカフカス戦争を総合的に把握することである。とりわけ、1826-28 年のイランとの戦争に関する文書は極めて豊富だ(21-30 巻)。その中には、1813 年のゴレスターン条約(1804 年に始まったグルジアをめぐるイランとの戦争の結果、締結された)に基づく国境画定の交渉という興味深い文書もある(24 巻:エルモーロフから皇帝に宛てた1824 年6 月2 日付報告書)。
対オスマンでは、クリミア戦争だけでなく、1787-1792 年と1828-1829 年の露土戦争に関する資料も収められている(1787-1792 年については14, 15, 17, 18, 20 巻。1828-1829 年については30, 31 巻)。第三に、地域史としてオセチア、クバン、アブハジアの征服過程をたどることである(例えばクバンは5, 10, 11 巻、32 巻第2 部、オセチアとアブハジアは13 巻)。21 巻にはチェルケス人、30 巻には「西カフカスの人々」の民族誌がある。
『カフカス集成』の戦史は当事者の息遣いが聞こえるほどの緻密な記録であり、その微細な記述の読解には相当の忍耐が必要だ。しかしその先には、われわれがまだ見たことのないロシア帝国が広がっている。[長縄宣博]

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【資料紹介】『チェコスロヴァキア日刊新聞』[no.136(2014.2)より]

このたび、北海道大学スラブ研究センター図書室の所蔵資料に、『チェコスロヴァキア日刊新聞』Československý denník(1)のマイクロフィルム(全3 巻)が加わった。同図書室には以前から同紙の一部(1919 年5 月~ 12 月分)のマイクロが所蔵されていたが、今回新たにほぼ全巻が揃ったことは、チェコスロヴァキア軍団プロパーの研究だけでなく、1918 ~ 1920年の時期のロシア内戦や日本の「シベリア出兵」の研究者にとっても、心踊る朗報である。
『チェコスロヴァキア日刊新聞』は1917 年12 月(2)から1920 年7 月まで、旧帝政ロシア各地で刊行されたチェコ語の新聞で、発行主体は、当初は在露チェコスロヴァキア国民会議およびチェコスロヴァキア諸団体連合組織(3)、1918 年8 月から同年12 月まではチェコスロヴァキア国民会議在露支部(4)、以後表題から発行主体の表示が消える。この事情はおそらく、12月14 日のM・R・シチェファーニクによる同支部解散命令と関係している。
タイトルが示すように原則として日刊だが(週に1 日休刊日あり)、切迫する状況や編集部の移動のために、数日間刊行が滞ったこともある。大部分の記事がチェコ語で書かれているが、スロヴァキア関連の記事にはスロヴァキア語が使用されることもあり、(とくに初期には)重要な情報がロシア語で掲載されるケースも散見される(5)。通し番号によると全部で717 号が刊行された。
目を引くのは、軍団の移動とともに刊行地が転々としていることである。1917 年12 月の創刊号から1918 年2 月まではキエフ、3 月~ 4 月はペンザ〔ペンザ協定!〕、4 月~ 5 月はオムスク、6 月~ 7 月はチェリャビンスク〔チェリャビンスク事件!〕、7 月~ 8 月にふたたびオムスク、8 月から翌1919 年3 月までエカチェリンブルク(6)、同年3 月から翌1920 年1 月までイルクーツク〔コルチャーク銃殺!〕と、シベリア鉄道沿線を次第に東漸。3 月~ 4 月いったん中国領に入り、満洲里、ハイラル〔ハイラル事件!〕、ハルビンなど東支(中東)鉄道沿線各地を経て、1920 年4 月から7 月の終刊号まではウラジヴォストクで刊行された。このような機動性を保つことができたのは、同紙の編集・印刷が専用の鉄道車両のなかで行われていたからである。
基本的に2枚(4 面)立てだが、1 枚(2 面)のときもあり、資料や文芸付録で増ページされている場合もある。第一面には軍団や国民会議支部、(1918 年10 月のチェコスロヴァキア独立後は)本国の情勢に関連する記事や論説が配置され、第二、三面は軍事・行政・経済関連の雑報、下段には「ベセダ(議論)」という連載コラム欄が設けられている(扱われるテーマは多種多様)。第四面ではおもに諸外国のニュースが扱われているが、同時代の激動する全世界の動向が、幅広く、そして「中立的な」スタンスで報じられていることに驚かされる。
本紙はロシアに駐在していたチェコスロヴァキア軍団の主要な機関紙であり、第一次世界大戦末期の世界規模での歴史的大変動(ブレスト・リトフスク条約、ロシア内戦の勃発、チェコスロヴァキア独立、第一次世界大戦終結、ヴェルサイユ講和会議など)の時期の、ロシア内戦の「特異な」アクターであったチェコスロヴァキア軍団の動向を、「リアルタイム」で内側から窺い知ることのできる貴重な一次資料である。
私個人は、同紙におけるM・R・シチェファーニク関連の報道と、日本と日本軍についての報道に焦点を絞りながら、全体にざっと目を通している段階である。さしあたり指摘できることは、シチェファーニクがウラジヴォストクに到着する1918 年11 月半ばまで、彼に関する報道がほとんど見当たらない一方、1919 年5 月に彼が「悲劇的な」死を遂げた後は、一転して賞賛記事が第一面を飾ることである(「シチェファーニク伝説」形成の現場を観察できる好材料)。日本関連の情報や記事はかなりの量にのぼるが、初期の好意的視点が、しだいに冷静な眼差しに変化する様子が感じ取れる(同紙の基本的立場はリベラル左派と表現できるように思う)。1920 年4 月のハイラルでの両軍の軍事衝突をどのように報じているのか、ひも解くのが楽しみなような、怖いような・・・。もちろん政治史資料としてだけでなく、経済・社会・文化関連の問題設定にとっても、同紙の活用範囲は広い。
マイクロの状態はおおむね鮮明で読みやすい。欠号、欠ページはごくまれだが、1919 年11- 12 月分にまとまった欠落が見つかった(7)。マイクロ作成時の手落ちと思われるので、すぐに補充を依頼する予定である。


1 タイトル中のdenník のスペルは、チェコ語辞書ではアルハイズム(古風な用法)とされ、現代語で
はdeník と書く。だがスロヴァキア語表記は現代語でもdenník である(発音は[d’e>ňík])。つまり
このタイトルは、チェコ人もスロヴァキア人も自分の言語として読めるわけである。命名者が意図的
にそうしたのかどうかは、さしあたり不明。
2 1917 年には12 月24 日(露暦らしい)に創刊号が出ただけなので、実質的には1918 年1 月からの刊行。
3 Orgán Československé Národní Rady a správy Svazu československých spolků na Rusi
4 Orgán Odbočky Československé Národní Rady na Rusi
5 チェコ語タイトルの下にЧешскословацкiй(後にЧехословацкiй)дневник の表示がある。旧正字
法が用いられている点に注意。
6 (蛇足ながら)1924年から1991年までスヴェルドロフスク。1918年7月にツァーリ一家が殺害された町である。
7 第539 号~第571 号が欠落している。ただし既存のマイクロで556 号まではカバーできる。

[長與 進(早稲田大学)]

 


藤田整氏蔵書の受贈[no. 136 (2014.2)より]

 藤田整氏は、1928 年京都府にお生まれになり、1955 年に一橋大学経済学部を御卒業後、同大学社会学研究科に学ばれました。1963 年に大阪市立大学経済学部講師に着任され、1975 ~1991 年には同大学教授を務められ、社会主義経済、ソビエト経済の専門家として御活躍なさいました。大阪市立大学を定年で退かれた後は、大阪経済法科大学に移られ、学長をなされた時もあります。
その間、御著書としては、『社会主義経済と価値法則』(日本経済評論社、1967 年)、『ソヴエト商品生産論』(世界思想社、1991 年)などを発表されました。
スラブ研究センター図書室は、2011 年に藤田整氏より蔵書寄贈のお申し出をいただき、御提供いただいたリストを検討した上で、3 回にわたって、計375 冊の蔵書を御寄贈いただきました。1950 年代以降のソ連で出版されたロシア語の経済書が中心ですが、一部、ドイツ語、日本語のものも含んでおり、変わったところでは、1914 年版のベデカーのロシア旅行案内(英文)が含まれています。
藤田氏より御寄贈いただいた資料は、2012 年の秋以降、附属図書館で登録・整理が進行中で、ご将来的には、その大部分は、センターの収集した他の露文資料とともに、附属図書館書庫1F の「スラブコレクション・露文図書」に排架される見通しです。

[兎内]

 

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