W. S. クラークと札幌農学校図書館


W. S. クラークと札幌農学校図書館

菅原 英一                    

(北海道大学附属図書館)


 

図書館の影を浴びきて涼新た
                    (近藤潤一句集「秋雪」より)

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 現在、北海道大学の最も南側にはクラーク会館という名の福利厚生施設がある。その北面に中央ローンがあり、その中央ローンを取りまくように古河講堂、附 属図書館、百年記念会館、そして、クラークの胸像などが配置されている。北海道大学札幌キャンパスの南側の一端にある現在の附属図書館は百余年の時の経過 をたずさえて立っており、私がこれから関わりを持とうとしている言葉の淵源を形成している。
 札幌農学校の初代教頭であったW.S.クラークがその職にあって活動した期間は、明治9(1876)年7月から明治10(1877)年4月の約8か月に 過ぎない。その短い期間に様々な足跡を残していったわけであるが札幌滞在中の終わりに書かれた書簡の一つに直接札幌農学校の図書館に言及したものが残され ている。(「自筆書簡1頁目」「自筆書簡2頁目」)
 秋月俊幸氏が次のように書いている。

 開校から4カ月ほどたった1876年12月には、北講堂と寄宿舎の間に延べ30坪(99平方メートル)ほどの木造柾葺二階建ての「書籍庫」が新築され た。これが独立の建物を有する図書館の起源であるが、前年の設計に基づいて建てられたこの書籍庫にクラーク教頭ははなはだ不満であったらしく、調所校長に 防湿・採光・書架配置についていろいろと改善を要望している。当時の校舎がすべて洋風のしょうしゃな建築であったのに比べると、この書庫は写真でみてもは なはだ貧相な建物である。しかもこの「書籍庫」には閲覧室はなく雑誌及び新聞の縦覧所としては別に北講堂内に「読書房」が設けられていた。「秋月(ほか)、1980」

 この「いろいろと改善を要望」した書簡は、1877年3月17日の日付を持っている。構内での図書館の位置、建物内部の防湿対策、採光の問題、窓や階段 の手直し、書物観、と、大変広い範囲のことを問題にしたものである。この書簡には、4月の帰国を前にして、おそらく図書館の最低限の手直しといった意味合 いが込められていたものと思われる。
 クラークは、札幌農学校に着任する前に東京でいろいろな施設を見学している。その一つに7月10日の東京書籍館の見学があった。改善を要望する書簡を書 いた時点で、半年以上も前に見た東京書籍館の記憶が残っていたかどうかはわからない。あるいは、母国アメリカのアマースト大学やマサチューセッツ農科大学 の図書館が比較の対象として念頭にあったのだろうか。以下、その書簡の内容を順を追って見ていきたい。


1903年当時の札幌農学校図書館

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 「私は本日建物を調査してみたのですが、そのことに関して以下の提言を申し述べます。」として、まず、位置について次のように書いている。

 位置に関しては私には全く不適当で危険に思われます。ですから、100フィートまっすぐ南に移転するのが大いに望ましいことです。もしそうしないのであれば、体裁上から屋外便所の方を撤去しなければなりません。

 これは言葉通り体裁だけを問題にしたのだろうか。この時代の構内配置からは、つまり、現在のように広いキャンパスのなかに多くの学部・研究所があるわけ ではないのだから、教育研究上の好ましい位置といった観点があったかどうかは読み取りにくい。ただ、100フィート(約30m)まっすぐ南に移転すると、 ちょうど演武場(1878年建設)のあたりになる。北講堂と校舎(寄宿舎)の中間に位置することになり、その位置が利用にとって最適といえるかどうかとい うのは時代性の問題である。(次の図で、書庫が建てられた時点で存在していた建物は、北講堂・校舎・厠の三つである。)


初期札幌農学校配置図
越野武「札幌農学校の建築」より転載

 ここで、私たちはクラークの言葉から少し離れてみて、図書館はどこに位置すべきか、という図書館学上の古典的なことがらを想起してみてもよい。もちろ ん、利用されやすい最適の場所、という紋切り形の模範解答を知ってはいる。しかし、このことは、現在の発達したコンピュータ技術や通信技術の前では、実際 古典的な問題となりつつあるかも知れない。つまり、図書館や資料がどこにあろうと、テキストや情報が空間のひろがりを超えていききする時代が到来している のだから。

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 続けてクラークは次のように書いている。

 建物の内部は配置が非常に悪く、いまの状態は図書には全然適していません。図書は湿気で傷んでしまうでしょうから。上の階は屋根から湿気を取り除くために、上部に漆喰を塗るべきです。そして、通気口が必要です。

 この文面から、風通しが悪くて湿っぽく、それほど整理されていない建物の内側を容易に想像することが出来る。今日のように酸性紙が問題化していなかった であろうし、もちろん複写による書物の劣化を考える必要もなかった。ただ、図書館というよりは今日からみて保存庫に近かった当時の札幌農学校図書館にとっ て、図書の保存ということは重要なことであったはずである。現在では、たとえば、「虫や黴の発生を防ぐためにも、湿気を帯びた空気の溜りが生じないよう に、きれいな空気を自由に巡回させる必要がある。そのためには、通気孔の位置-資料に直接風が当たらないように気をつける-、書架の配置や書架上の本と壁 の間に隙間を空けるなどの配慮が必要である。」(武者小路信和「図書館内部における保存対策」、『図書館資料の保存と対策』日外アソシエーツ、1985、 所収)という言葉を私たちは読むことが出来る。クラークの言葉は内容的にそれほど隔ったものではない。科学者であったクラークにとって、このような指摘は 非常に簡単なことであったのだろう。

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 さらに、窓や階段について、次のような言葉をのべている。

 西側の窓は全部板囲いにすべきですし、本箱や書架は上の部屋の両脇に沿って置くべきです。
 両端のガラス窓は2フィート短くして、それぞれに重り付の窓枠を取り付けるべきです。外側の格子は取り除くべきです。防護にはならず、光を遮りますから。
 階段は、様式・位置とも変えるべきです。現状では両階の中央部の大部分>を占領しているのですから。

 1877年の段階での蔵書数は、洋書3,734冊、和漢書5,100冊となっている。[秋月(ほか)1980]。クラークが書架の配置や採光を問題にしているのは、主に図書の出納上のことからであったのだろうか。
 ”The Japan Gazette"という1867年に創刊され、横浜で出されていた英文の日刊紙がある。その1880年1月20日号と27日号の2回にわたって、「日本に おける農芸教育」という見出しで札幌農学校を扱った記事が載っている。27日号では図書館の建物にも触れていて、およそ次のようなことが書かれている。

 図書館として使用されている二階建ての小さな建物がある。そのデザインから明らかに当地の建築家の手になるものである。ほかの建物と比べて余りほめられたものではない。それに、図書館にとっての第一の要件-良好な採光と良好な換気-に欠けている。

 クラークの指摘と同様のことが書かれた部分があって興味深い。
 ここで、クラークの帰国後教頭として残ったW.ホイラーが1877年9月20日付けで調所校長に宛てた書簡から次の言葉を見ておきたい。

 客年教官卜協議ナク取建ラレタル木製ノ文庫ノ如キハ啻ニ其ノ位置不便宜ニシテ且ツ内外ノ観更ニ風致ナキノミナラズ殊ニ不安全ナルモノニシテ若シ近隣ニ火ヲ失スレハ該家屋ノ如キハ容易ニ其火ヲ移伝スルノ媒具トナリ

 「客年教官卜協議ナク」という言葉が見えるが、これはどういうことなのだろうか。クラークが1876年11月19日付けで義弟チャーチルに宛てた手紙に次のようにある。

 私達はいま図書館に使う建物を建築中です。私達はすでに相当の数の教科書、百科事典等を持っています。あなたは何らかの形で私達が興味深い宗教的読み物 を手にいれるのをたすけてくれることが出来ますか。例の週報の製本したものはありませんか、もし開拓使気付で私宛てに送られてくれば、私は一箱分の宗教関 係の読み物を送る費用の一部として五十ドル喜んで払いますし、それらの書籍がちゃんとラベルをはられ、農学校図書館に納められるように取り計らいます。[太田、1979]

 この文面からみると、クラークは建築中の図書館についてそれなりの情報を得ていたと考えるのが妥当であるだろう。ただ、それがどの程度かは分からない。「普通の人なら一生かかる仕事を約250日という短い期間で」 [Maki,1978]執り行っていたクラークにとって、図書館の細部にわたって指示を与える時間はなかったのかも知れない。しかし、建設の過程で何等かの接触、つまり、「教官卜協議ナク」以上の関与をしていたことは確からしく思われる。


札幌農学校鳥瞰図(開拓使編纂『北海道志』より転載)

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 クラークは、最後に書物観とでも言うべき言葉でこの書簡を締めくくっている。

 図書は学生の用具なのであって、その費用と固有の価値との両方からみて最も良好な取り扱いに値いするものです。このような訳で、私は、農学校図書館に重大な関心を抱いております。

 これは、『札幌農黌第一年報』の次のような言葉と対応している。

 文学及ヒ術学ニ関スル新近ノ著書中ニハ教師及ヒ生徒ノ用ニ供センタメ殆ト欠クヘカラサルモノ実ニ多シトス書籍ハ生徒ノ器具ニシテ器具無リセハ彼等モ大業ヲ成ス能ワザルナリ

 この部分で、「書籍ハ生徒ノ器具ニシテ・・・・・・」のところは、クラークの書いた原文では,"Books are their implements, without which they can do but little."となっている。書簡では「用具」という訳語をあてておいたが、ともにImplementsである。これは単に機械器具といった意味あいで はない。直前にある「文学及ヒ術学ニ開スル新近ノ著書」(new literary and scientific works)という言葉から分かるように、思索や人間形成にとって不可欠の糧と考えられていたことは明らかである。『第一年報』では割愛されているが、そ のオリジナル版である”First annual report of Sapporo Agricultural College,1877”には当時 の蔵書目録が収録されている。そのなかには、"Natural philosophy"というタイトルが複本で数種類あったり、J.S.Millの"On liberty"やShakespeare の"Complete works"といったタイトルも見られる。そして、帰国後、1878年4月21日付けで佐藤昌介に宛てた手紙のなかにも「自然という素晴らしい書物と、彼 らにとってあれほど恵まれた環境のなかで学びうる書物中の書物(聖書)」という言葉がある[佐藤(ほか)1986]。クラークがいかに書物を重視しており、また、書物を扱う場としての図書館の役割というものを認識していたかが理解される。
 藤島隆氏の「北海道における図書館の歴史(1)」の札幌農学校の項に次のような記述がある。

 文庫職員は洋書部典籍1名(井川洌とある)和漢部典籍1名(長尾布山とある)によって構成され、新聞紙台や机、椅子などが備えつけらねへおよそ20種の日本新聞がおかれており、教官、生徒および開拓使官員などに午前8時より日没まで閲覧されていた。[藤島、1972]

 この言葉は、図書館(書庫)に対するものではなく、1877年9月に北講堂内に設けられた閲覧室(読書房)についてのものである。が、当時の図書館利用 の様子をほうふつとさせられる。広い空間のうえをゆったりと時間が流れ、読書をしたり、散策をしたり、といった姿が浮かんでくる。

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 クラークの書簡を手がかりに、札幌農学校の図書館について概観してみた。たとえ今日からみて極めて粗末で「風致」ない建物であったとしても、それが図書 館であったかぎりにおいて、文学者がいれば「図書館の影を浴びきて涼新た」という一句が生まれ得た空間であったのかも知れない。書物や言葉が吸引力をも ち、そしてやがて、その力から解放されたときにやってくる剰余感は当時の図書館でも重要な構成要素であったと思われる。
 北海道大学附属図書館の藤島隆氏(現在山形大学附属図書館)のすすめでクラークの書簡を調べてみたのが契機であった。読みにくい自筆の手紙を解読しなが ら、W.S.クラークという「教育者」の相貌が浮き沈みして私を困惑させた。私は、いつも小稿のようなテーマに出会うと、自身の知見のとぼしさに由来する もどかしさと同時に過去に対するある種の羨望の念を感じてしまう。現在とは否応なくそこにあるものだ、ということを思い知らされる。もちろん、現在のスパ ンをどうとるかによってそこにあるものの様相も変化する。ところが、過去とか歴史とかといった言葉で表される事象は、どこかで私たちのイメージの作用に よって現象する一面がある。過去はそのようなモチーフなしでは現れないものなのだろうか。現在が生きられるしかないとすれば、過去とは残されるしかないも のといえる。私たちのイマジネーションに残されるものしか、私たちは過去として認知しないように出来ているのかも知れない。


(付記)
 本文中に引用したクラークの書簡は、菅原がタイプに打ち直したものを基にして試訳したものである。なお、クラークの書簡は当時の日本語に訳されており、「農学校文庫改良についての意見」として『北大百年史・札幌農学校資料(1)』(282-283頁)に収録されている。
 また、小稿は、「北の文庫」19号(1991年9月号)に掲載したものに誤植等若干の字句の修正を行ったものである。(1996年10月3日記)