“Boys, be ambitious!”について
“Boys, be ambitious!”について
この数年「Boys be ambitiousに続く言葉について知りたい」という問合わせが多くなった。調べてみると,高校や中学の教科書の中にも次のような言葉をのせたものがあるようである。
“Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
この言葉がこのように広まったのは,昭和39.3.16の朝日新聞「天声人語」欄によるものと思われる。「天声人語」はその出典として稲富栄次郎著「明 治初期教育思想の研究」(昭19)をあげ,さらに次のような訳文を添えている。「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく,また人呼んで名声 という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」
ここてはクラーク博士の「大志」の内容は,富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。これは“Boys be ambitious in God”として,神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものである。
しかし,この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには,いくつかの無理がありそうである。まず,“Boys, be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので(第一期生大島正健博士の著書による),その時 の状況からみてこれは「さようなら」に代る別れの言葉であったと思われる。この言葉でさえ多くの学生たちが聞きとったことは疑わしい程である。次にクラー ク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったことである。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と 責任を有する地位」に到達することをよびかけている。即ち日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では,努力によっては国家の有為な人材となることを妨げ るものは何もないことをのべ,学生たちの青年らしい野心(lofty ambition)を期待したのである。このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが,ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタ ンの精神がよくあらわれている。
それでは前記の長い英文を書き加えたのが誰であったかということになると,今のところ全く不明である※。「天声人語」が引用した稲富氏の著書には典拠を 欠いているが,これは恐らくは岩波の「教育学辞典」(昭11)の「クラーク」の項(海後宗臣)であると思われる。さらに海後氏は同文館の「教育大辞書」増 訂改版(大正7)の「クラーク」の項(小林光助)によったものであろう。ただ小林氏は例の英文を引用するに当り,これがBBAの「意図する内容」であると 書いているのに,海後氏はこの英文全体をクラーク博士自身の離別の言葉とのべている。その後の混同のもとはこの辺にありそうである。
終りに,BBAが札幌農学校時代にどのように伝えられたかについて簡単にふれておきたい。不思議なことであるが,現在はこのように広く知られているこの 言葉も , 明治の中頃までは農学校においてさえ余り知られていなかったのではないかと思われる。例えば後にはこの言葉について講演などもした第二期生の内村鑑三でさ え,学生時代にこの言葉を知っていたかどうか不明である。即ち内村はクラーク博士死去の翌月(明治19.4.22),アメリカの新聞「The Christian Union」に「The missionary work of William S. Clark」という一文を投稿し,この中で島松の別離のことをのべているのに,BBAには触れていない。このことは必ずしも彼がこの言葉を知らなかったこ とを意味するものではないが,少なくともこの言葉がそれ程重きをおかれていなかったことの証左となろう。
BBAが記録の上で最初にあらわれたのは,現在知られる限りでは,明治27予科生徒安東幾三郎(のち日伯拓植取締役)が農学校の学芸会機関誌「恵林」に 掲載した「ウイリアム・エス・クラーク」なる文章中である。その13号に安東は書いている。「暫くにして彼悠々として再び馬に跨り,学生を顧みて叫んで日 く,『小供等よ,此老人の如く大望にあれ』 (Boys, be ambitious like this old man)と。一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ」このlike this old manは意味深重であるが,別れの言葉としては一寸芝居がかっている。それに50歳を少し過ぎたばかりのクラーク博士が自分のことをold manと考えていたかどうか。それはともかく語呂の点からみても,まだこの言葉は学生間に充分に定着していなかったことを物語るように思われる。
次いで明治31年には学芸会が「札幌農学校」という本を編集しており(裳華房刊),その巻頭に「Boys, be ambitious」を掲げ,本文中に日く,「忽ち高く一鞭を掲げて,其影を失ふと云ふ 。 実に巻首載する所のBoys be ambitiousの語は彼れが最後の遺訓にして……」この本は美文調の風格ある文章で書かれていて,好評を博し3版を重ねた。農学校の出版物にBBAが あらわれるようになったのは,この本以後のことである。いずれにしても,この言葉は長い間埋れたのち,札幌農学校が確固たる基盤を獲得し,学生たちの間に 自信と誇りが培われた頃に思い起され,特別の意味を与えられるようになったようである。(秋月俊幸)
※農科大学予科英語教師のローランド師による。
(北海道大学図書館報『楡蔭』No.29より転載 )