スラブ・ユーラシア研究センター図書室
Library, Slavic-Eurasian Research Center

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【2006年】

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ナウカの破産          [no. 107 (2006.10) より]

 7月5日午後、ナウカ(株)札幌営業所の熊坂さんと井上さんが揃ってあいさつに見えて、「当社は、本日、裁判所に破産を申し立てました。明日、決定がくだされることと思います。支援に応えられず、これまでいろいろご迷惑をかけましたが、たいへんお世話になりました。」とのこと。翌日、両人は再度訪問され、「本日、破産が決定しました。明日より、営業所はロックアウトされ、連絡が取れなくなります。」と話されて帰った。
ここ数年、経営が相当苦しくなっていることは承知しているつもりであったが、何とか立ち直れないものかと思っていた。昨年、『窓』が休刊し、最近のカタログが合併号になったのを見て、いよいよ危ういと感じていたが、ついにその日が来てしまったようだ。暗然たる気持ちである。
ロシア語書籍輸入の老舗である同社の札幌営業所は、北大正門すぐそばのビルに居を構え、当センターにとっては、長年にわたって最大の取引先だったと思われる。特に、秋月孝子さんが図書室で腕をふるっていた頃、札幌営業所の担当者だった菅原さんとは大変密に連絡を取っていたとのこと。仕事上の最大のパートナーと言っていいような存在だったと推察される。年間取引量は、軽く1,000万円を越えたことであろう。
1995年にわたしがセンターに赴任した時は、すでに菅原さんは東京に移られたあとだった。 ( その後、非常に経営が厳しくなってから社長となられ、昨年亡くなられたが、わたしは亡くなられたことを長く知らなかった。) ナウカは、依然として大口取引先の一つであったが、次第に取引量は減っていくことになった。ご承知のように、当時、ソ連崩壊後の書籍流通には、大混乱と大転換が生じていた。中央集権的出版と書籍流通の体制が解体され、ナウカを通じて輸出入公団に発注するこれまでの方法では、多数の書籍が、注文しても入荷せず、出版情報も入らなくなった。Новые книги(エヌ・カーと略して呼んだ) は、まだ出ていたが、それを見て注文しても、入ってくることが少ないことがわかり、使うのをやめた。いつの間にか、エヌ・カーそのものが来なくなった。ナウカのカタログで注文しても、在庫本以外の入荷率は非常に低く、ロシア語書籍は、(株)日ソの見計らい本で入れることが多くなった。しかし、これではいろいろ欠けるものもあるので、それを補うために、二、三の別ルートを併用した。
ナウカとのお付き合いは、主に新聞・雑誌および洋書の方面で続いた。ナウカの洋書目録は、人類学など人文科学系に配慮された編集がされていて、有意義であったが、発注後の入荷の確実性には問題があり、後日クレームすることが少なくなかった。また、前に載せた本を繰り返して載せる傾向があり、過去の発注記録を調べると、注文済みの本であることも少なくなかった。なんとか在庫をさばきたいという切迫した事情があるものと推量されたが、選書の手間を考えると相手にするのは不経済である。また注文しても入荷しないなら、選書・発注業務は無駄となり、かえってコレクションに穴があく。いきおい、ナウカとの取引は減っていくことになった。この他、新聞・雑誌の契約は大幅に他社に移され、数年前からは北大での前金での取引対象外とされた。記録を調べると、センター図書室と2003年度の取引は、逐次刊行物が150万円余り、図書などが500万円弱の、合計650万円余りだったのが、2005年度は、逐次刊行物は160万円弱に対して、図書などが260万円弱、合計で420万弱にとどまる。
ナウカの破産により、ロシア、旧ソ連諸国の書籍輸入を手がける国内の業者は、事実上、日ソだけとなった。現在、大学予算の削減、書物中心の研究方法からの転換等により、洋書輸入業自体が、非常に厳しい経営環境にさらされていると思われる。しかしその一方では、皮肉なことに、こうしていわば脱書物化が進んだせいで、ちょっとした基本的な文献が身近にないことが増え、かえって図書やマイクロなどの資料を組織的に整備することの意義が高まっているようでもある。
今回の破産は不幸なことであったが、センターにとっては、資料の組織的整備を進めていく上での、新たなパートナー模索の始点に立ったとも言える。[兎内]  

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シェヴェロフ・コレクションの整理の進捗          [no. 106 (2006.7) より] 

 本誌90号(2002年7月)で、シェヴェロフ氏旧蔵書の受入完了が近いことをお知らせしたが、それを並べる場所の確保が困難だったことなどもあり、その後の整理は、必ずしも順調でなかった。本年になって、最近、国立情報学研究所が力を入れるようになった遡及入力支援事業が活用できないかと、附属図書館から申請していただいたところ、これが採択され、5月から整理が急速に進行するようになったので、お知らせしておきたい。
この遡及入力支援事業の対象は、図書として整理できる資料に限定されているため、逐次刊行物類については今後引き続き目録作業の必要があるものの、これによって本年度中に、おそらくはスラヴ言語学・文献学コレクションとしては質・量とも国内最大規模と言えるであろう、本コレクションの大部分について目録が作成済みとなり、オンライン検索可能となる見込みである。[兎内] 

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ソ連共産党・国家文書の補充           [no. 105 (2006.5) より]

 1995年度以来、スラブ研究センターでは、Hoover InstitutionとРосархивの共同事業として製作されChadwick-Healey社から販売される «Archives of the Soviet Communist Party and Soviet State»について、当時のCOEプロジェクト経費などを使用して逐次購入をしてきましたが、COEプロジェクトが廃止された後は、なかなかこれに手が回らない状況が続いていました(センターニュース87号, 2001年10月を参照)。しかし、昨年度の終わり近くになって、若干の補充を果たすことができましたので、お知らせします。
昨年度の購入分は、ГАРФの収蔵する文書中、リール番号で3.2723-3.2949の全227リールです。これは、ピローゴフ通りにある旧ЦГАОР СССРに所在するフォンドr-393 内務人民委員部の文書の一部であり、年代的には1923-1925年のものです。なお、このフォンドは、相当膨大なもので、これまで約2600リールを購入してきましたが、なお1000リール以上が残されています。[兎内]

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ハプスブルク帝国期オーストリア議会議事録(1861-1918)          [no. 104 (2006.2) より]

 ハプスブルク帝国の帝国議会Reichsratは、ハプスブルク家諸領邦の身分制議会にその起源を持つとされる。1848年のオーストリア三月革命に際して召集された憲法制定帝国議会Reichstagは7月に開会したが、10月にウィーンがヴィンデシュグレーツ将軍の手に落ちると、モラヴィアのクレムジルに移り、憲法草案の審議を続けた。しかし、政府は翌1849年3月にこれを武力によって解散し、欽定憲法を公布した。さらに、この憲法も発効することなく、1851年末のシルヴェスター勅令によって廃止された。
1859年のイタリア戦争での敗北後、1860年に出された十月勅令は、領邦議会の代表からなる帝国議会Reichsratを設置し、これに限定的な立法権を付与したが、翌1861年の二月勅令はこれを修正し、皇帝の任命する議員から成る貴族院Herrenhausと領邦議会の代表から成る衆議院 Abgeordnetenhausの二院から構成される、より広範な立法権を持つ議会として、これを規定し直した。この帝国議会は同年5月に開会されたが、ハンガリー、クロアチア、トランシルバニアなどはこれに反対して代表を送らず、また、開会後に、チェコ人、ポーランド人がここから退場するなど、議会運営は軌道に乗らなかった。
普墺戦争(1866年)の敗戦の翌1867年、帝国はハンガリー王国との和協(アウスグライヒ)によって、オーストリア=ハンガリー二重君主国として再編成された。帝国の西半分のオーストリア側と、東半分を占めるハンガリー王国は、共通の君主を戴きながら、別個の政府と議会を組織し、共通事項である外交・軍事・財政以外はそれぞれが別個におこなうこととなった。オーストリア帝国議会は、1867年これを認め、同年末に発布された十二月憲法とよばれる新憲法の下で再出発した。
新帝国議会においては、皇帝の任命する議員から成る貴族院Herrenhausと領邦議会の代表者から成る衆議院Abgeordnetenhausの二院の権能は対等とされ、皇帝には依然として議会の解散をはじめとする多くの大権が留保されるなど、絶対主義的な性格が濃厚な体制がとられたが、このオーストリアで実質的にはじめての立憲君主制は、第一次世界大戦末までのほぼ半世紀にわたって維持された。ただしこの間、衆議院選挙制度は、1873年に領邦議会議員の互選から直接選挙制に移行し(ただし4つのクーリエから成る制限選挙)、1896年には、これに普通選挙により選出する72議席が追加され、 1907年にはクーリエ制が廃されて選挙制が男子普通選挙に統一されるなどの改正を経たが、ナショナリズムの勃興期における多民族国家を背景にした議会運営には困難が多く、法案も予算も審議できない機能不全の状態に陥ることも稀ではなかった。
本センター図書室は、ハプスブルク帝国史研究上の基本史料として、Olmus社の製作した上記オーストリア帝国議会議事録(Stenographische Protokolle über die Sitzungen des Herrenhauses des Österreichischen ReichsratesおよびStenographische Protokolle über die Sitzungen des Hauses der Abgeordneten des Österreichischen Reichsrates)のマイクロフィッシュ版(それぞれ698枚と5229枚)の購入を2004年から進めていたが、昨年秋に完結させることができた。これが、東欧史研究に関する北大のポテンシャル向上に資することを期待したい。
なお、本資料は、国内では他に早稲田大学図書館、および慶応大学三田メディアセンターでも所蔵する他、九州大学には原版のかなりの部分が揃っているとの情報がある。[兎内]


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