| |
近年(だけの現象ではないのかもしれないが)、歴史上の人物像の見直しや新解釈の本が目白押しである(例えば、エヴァリスト・ガロアやレオナルド・ダ・ヴィンチ)。その中で、この本はベートーヴェンの名前の読み方が実は「べートホーフェン」である、というところから説き起こして、よく知られている(らしい)髪の毛を振り乱した眼光鋭い「ベートーヴェン」の肖像が実像とはずれていることに進み、あとはひたすらこれまで語られてきた「べートーヴェン」像を解体して実像を描き出そうとする。その書きぶりは、副題の「神話の終わり」どころかまさに「偶像破壊」といった勢いであり、読んでいると「べートホーフェン」が気の毒にすらなってくる。確かに昔から「ベートーヴェン」については頑固者の田舎者で、といった評価が語られていたが、この本では「べートホーフェン」を「不細工」、「回避性パーソナリティ障害」、「強迫観念」に取り憑かれた人物、とそれこそ言いたい放題である。そうした「べートホーフェン」が音楽的に真に成熟した作品を作曲するようになるのは1815年以降であると著者は述べ、楽曲に即して後期の弦楽四重奏曲や第九交響曲に対する分析を加えていく。
実は、この本の前半部分で述べられていることは、既にある程度「ベートーヴェン」に関して知識がある人や他の本を読んでいる人ならおおかた知っていることが多く、特に目新しいものはない。強いて言うなら、青木やよひ氏が『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』(講談社現代新書)で提出したベートーヴェンの“隠し子”、そして「不滅の恋人」自体の存在があっさりと否定されるところにいくらかの新解釈がまとめられているが、音楽家の評伝として面白いのは最後の3章である。ナポレオン戦争の時代を背景に交響曲「ウェリントンの勝利」が大受けして舞い上がる「べートホーフェン」の姿と、その内面の苦悩がどのような音楽に結晶していったかを読むと、あらためて「ベートーヴェン」ではない「べートホーフェン」の弦楽四重奏曲を聞いてみたくなる。この本は読者の音楽体験に新しい発見を与えてくれるものである。 |