「哲学」のススメ |
タイトル(書名) | : |
善の研究 |
著者 | : |
西田幾多郎 |
出版者 | : |
岩波書店 |
出版年 | : |
1979 |
ISBN | : |
4003312414 |
北大所蔵 | : |
北大所蔵1 北大所蔵2 |
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推薦コメント |
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『善の研究』については、これまで嫌になるくらい論文や研究書があり、僕もかつてその手のものを書いたことがある。それだけいろいろな読み方・解釈が可能だという点では紛れもなく「古典」であるが、同時に何回読んでもすっきりと分かった感じになれないところもある。そういうところから、「西田哲学を理解するためにも実際に参禅をしなければならない」(久松真一)といった言説が出てくるのだろう。
『善の研究』は、すぐ分かるようでありながら実は分かりにくいし、まさにその「分かる=理解」という営みそのものを問題にしているところがあるので、どこまで行っても自分が分かったと思うことを自分なりにまとめられないもどかしさが付きまとう。しかし、そのもどかしさと格闘している時に実はいつの間にか自分が自分のことばで哲学し(ようとし)ているのだということに気づくだろう。『善の研究』を、そして西田哲学を理解する方法はただ一つ、「読書百遍意自ら通ず」、これである。
そして、解説書、研究書の類は(これで卒論を書こうとか、専門的に研究しようという人は別として)読まないこと。下手に読むとえらい目に遭う、ということだけは、久松真一の解説を読んでしまったがために13年間も青春を無駄にした僕自身の苦い体験から言っておこう。それでも何かを、という人には唯一、上田閑照『マイスター・エックハルト』(講談社・人類の知的遺産シリーズ、図書館にある)をお勧めする。どうしてエックハルトなのかは各自で読んで確かめられたい。西田が問題としようとしたことが、西洋哲学あるいは神学の文脈でどのように意味づけられるかを通して見えてくるだろう。 |
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