情報と文明



北海道大学総長 丹保憲仁





 西暦1800年からほぼ200年で地球の人口は20倍にもなった。これ
は物理学的世界観に根ざして発達した近代科学技術の大きな成果である。大
増殖の初期は人類の発展と考えられたけれども,その最後になって人間はは
びこりすぎた生物種と自ら考えざるを得ないようになってきた。近代文明に
基づ人間の活動が地球の大きさに収まりきれなくなったわけである。地球環
境の時代の到来である。

近代科学技術と人間

(human beings, modern science and technology)

 全ての自然現象を,一定の手順によれば一定の結論に達するという自然科
学の法則に抽象し,その幾つかを組み合わせて人類は科学技術文明を創って
きた。そのために,さまざまな事柄の手順を体系化された知識,すなわち科
学技術の法則として教える学校教育が文明の中核としてまず出現した。一定
の手順によれば一定の結論に達するという自然科学的な法則のたて方が社会
集団の挙動の理解にまで広く拡張され,社会科学なる手順論が生まれた。近
代文明といわれるものである。

 人間は生物の一種であり,その生物的進化の度合いは遺伝子の変化を基礎
とした生体情報によるものを大きく踏み出すことはできない。その一方で人
間が創り出した知識といわれる外部情報は図書館に始まり,近年は電子情報
として個人の進化をはるかに凌駕する広がりと速度で進み,集積の度を加え
ている。個人は生体情報と人一代で習得した知識を使えるに過ぎない。その
ため人間が個人で持っている情報と人間集団が持っている全知識(文明)の
隔たりが今ほど大きかったことは歴史上ない。


地球環境と近代科学技術文明

(global environment and modern civilization)
 地球環境の時代を幾つかの言い方で表現できる。第一は,人が地球にあふ
れて生物としての生存に不可欠な水,大気,土等の正常な状態の保全を,人
類が今持っている知識とエネルギーでは保ち難くなり,食料不足もそう遠く
ない将来にあるという恐れである。第二は,その持っている知識「近代科学
技術」は場所と時間を限定した,ある整えられた条件の下で使えば極めて有
効であるのに,それら諸活動をそれぞれ限定した時空間で別個に行うような
余裕を地球上に持てなくなったことである。近代文明の有効性が萎えてきた
ということである。幾つものことが時と場所を同じくして発生するけれども,
我々が今持っている科学技術はそれを処理し得るほど進んでいない。


近代科学技術と生物

(living creatures and modern science and technology)

 人間の持っている科学技術は物理学で6桁の精度を,化学で2桁の精度を
ほぼ間違いなく出すことができる。しかしながら,生物に関わる現象は1桁
の精度がやっとである。まして,生物は個体で単独には存在しない。群集と
しての生物活動の諸評価は1桁の精度すら怪しい。地球上では全ての事柄は
生物と絡み合って存在している。従って,地球環境問題は,極めて高い精度
を持って扱うことの出来る物理化学的な現象と,今のところ1桁レベルの精
度しかない生物現象の重ね合わせで存在している。空間を分離できない場合
には,高精度の物理化学現象を複雑な生物学的現象に重ねなければならず,
その合成は論理的に非常に難しい。近代科学技術は精度の異なる諸現象を上
手に合成する方法をまだ持っていない。


体外情報

(civilization)

 これから21世紀を生きようとする時に,遺伝子レベルの情報をはるかに
超えた生体外情報が電子工学的な手段により極端に発達した形で集積されて
いるように見えながらも,それを人の挙動にまで戻して,人の生活をより安
らかにする方向で充分な働きをするレベルにまでは成熟していないことを考
えておかねばならない。我々はまだ中途半端な文明の状態にいることに気づ
く。外部情報による知識を人の知恵(生体情報プラス一代限りの記憶)の補
強に使って適切に人々が挙動することができるような,成熟したマン・マシ
ーン・システムが創れるか否かに人類の将来はかかっている。


近代文明とその先

(postmodern society)
 地上の動物の総重量の1/4をも占めるに至った人間が,近代文明という
巨大であるけれどもいささか粗放単純な行動規範の上で生き続けるとしたら,
地球は,というより人類は余り遠くない将来,その存在を危うくするに違い
ない。なにがどうなっているかわからないことから逃げようとする時,いさ
さか消極的な方向での一つの選択は,昔の生活に戻ることである。せいぜい
が農耕社会に戻るまでが関の山かとも思うが,先祖帰りがその選択肢の一つ
である。近代文明(基本的にOpen system)に頼らない局所循環
型のClosed systemによれば,長い江戸時代で証明されたよう
に,この日本では約3,000〜4,000万人の人間が生存できるに過ぎ
ない。ヨーロッパ中世の終わろうとする15世紀,その人口の1/4がペス
ト等の疫病で失われた。閉じた中世農耕社会の成立限界である。
 近代社会は,化石エネルギーを解放して資源収集空間を長距離大量輸送技
術によって拡大し,比較的単純な生産技術の集中化によって産業中心の活動
を高めた。20世紀の後半になって,近代社会の中心部では廃棄物の集積に
よる公害,周辺部では資源と技術不足による貧困からくる南北問題にさいな
まれ,近代文明社会の指数関数的拡大にブレーキがかかった。これを加速し
たのが分子レベルの物質合成技術の発達である。合成物質が人類にもたらし
た便益は計り知れない物があるが,其の一方でそれらによる環境の汚染は中
心部から周辺部へ広がって,近代文明の存立を難しくした。


地球環境問題

(global environmental issues)
 近代文明の特徴は,化石エネルギーを用いて高速大量輸送と大規模生産を
単品についてそれぞれ別個の空間で能率よく行うことであった。しかしなが
ら,それらの製品を使用する生活空間は生産空間のように相互に独立し,か
つ生物との密接な結合を切ることのできる場ではない。人間やその他さまざ
まな生物の存在する場でさまざまな製品と,そのある時間経過後の存在であ
る廃棄物が混在する。製品と廃棄物は,中に人間や生物を介在させた流れの
中に時間差を持って生じた現象である。このような事柄をどのように統合的
にとらえるかが環境問題である。環境問題をProblem(ろくでもない
こと)としてとらえるか,Issues(当然起こり得ること)としてとら
えるかが,公害が問題になった1970年代と文明の根本的な問題として扱
うことになった1990年代との違いである。


生命科学

(biological science)
 地球環境の時代,生物である人間の進化をはるかに超えた速度で外部情報
である文明を集積し続け,それを科学体系として持った人間は今,生命その
ものである遺伝子までを外部情報によって操作できる能力を持つに至った。
生物が生物を超えて生物を操作するという大きな曲がり角についに近代文明
は到達した。今までと同じような比較的単純な科学的手法で生物,さらには
特定の生物である人間をも対象として生物学の物理化学化が始まろうとして
いる。成熟しきらない粗い近代科学とその末端部分の生物本体への接触を先
端的と単にいうことにははばかりが多い。


先端技術と倫理性

(new technology and ethics)
 さまざまな先端科学がある。分野によってその行く先が明らかに切られて
いる先端科学技術と,その行き先が全く予想もつかない真の意味での先端科
学の二つがある。学校教育でいとも簡単に科学技術をマスターできるなどと
思うことは思い上がりである。人間の無知の証明に他ならない。科学技術と
いうものはその成り立ちからして悪魔的である。従って,それを使うときの
倫理性が学ぶべき最大のものである。学問研究を進める際には,為すべき人
の能力の大小を特には問わない。努力の大小もさして大きなことではないか
も知れない。これらはちっぽけな時間の中での尺取虫の歩みの僅かな差でし
かないからである。一番恐ろしいのは,その時に自分の進んでいる向きが正
しいかどうかがなかなかわからないことである。また,時には全くわからな
いことである。そのとき,ただ一つの道しるべとなり得るのは,そのことが
人を生かし,自分の良心を喜ばせるものであるかどうかということである。
短くいえば,倫理性に適うかどうかである。それとても,どの範囲で問題を
考えるかによって理解が異なるという大変に困難なことである。しかしなが
ら,なにを生業として人生を過ごしていくのであれ,仮にでもより高いもの
を求めて新しい道を開いていくことが人生の目的でありうるならば,人とし
ての倫理をしっかりと持ち続けることができるであろう。逆にいえば,その
ためにこそ科学を学び,技術を学ぶ動機が真らしきものとしてありうるよう
に思われる。


地球環境の時代

(the age of global environment)
 地球環境の時代は,近代文明に依る人間活動が地球有限の境界条件にぶつ
かって,その基本構造の転換を考えねばならぬところに来たことを意味する。
しかしながら,人類の持つ知的遺産として近代文明は圧倒的な大きさと広が
りを持っている。そして200年近くにわたり成功を実証してきた。その故
に今日の閉塞が始まった訳である。従って,この転換は容易なことではない。
空間とエネルギーの制約の下で,僅かな手がかりをもとに新しい文明を創る
ことを今始めなければならない。土の中にまだ眠っている先端の芽を掘るこ
とから若い人は初めてほしい。滅び行く近代文明を唯なぞるだけの勉強では
何も生まれてこない。自分の夢を,極く少数の絵の具で描かねばならぬ画家
の状況が今の先端を行くべき人々の宿命である。


図書館と情報ネットワーク

(library and information network)
 人が行動するときに頼ることのできる情報は,知恵と知識である。これら
の情報を人が得るときの道筋は,知恵にあっては親から受け継いだ遺伝的情
報と一代の学習によって得た物であり,其れに対して知識は学習によって自
分の脳のメモリーに取り込んだ物に加えて使い方を学びえた外部情報の総て
と言うことになる。文明という名で呼ばれる生体外の情報は膨大な歴史的・
分野的広がりを持っている。歴史的に図書館と言われる物がその最大のソー
スであった。

 文明と文化と言う似た言葉がある。「文化とは人間の生活の仕方のうち,
学習によって其の社会から修得した一切を言うが,狭義には文化と文明を価
値の体系と技術の体系に分け,文化は規範的・非累積的・人格的・主観的で
あるのに対して,文明は技術的・累積的・客観的であるとしている。しかし
ながら価値の体系である文化は技術の体系である文明と無関係には存在し得
ない。」(平凡社百科事典;石田英一郎) 私も日頃から文明と言う言葉を
殆ど石田の説明と同様に使っている。

 文明は人間の意識,制度,倫理等の精神的なものを支える物質的基盤であ
り環境の状態に応じて累積的に発展・展開していくものであろう。個人が学
習によって駆使しうる累積された情報の種類と其の情報を実用する事の出来
る速度は限られており,過去には定型的な学校教育と図書館などに蓄積され
た情報の適時使用で問題を処理してきた。従って其の運用しうる領域の大き
さと処理速度は限られており,どうしてもある大きさに分野を縦割り的に区
切って,上述の方法で処理可能な専門分野の範囲を超えることが出来なかっ
た。近代文明の限界もそこにある。

 しかしながら,地球上の空間を総ての活動が分け取ってしまった結果,環
境制約の厳しい現代のような時代になり,この閉塞を超えて活動を維持発展
させて行こうとすれば,複数の活動の折り合いを同一の空間で付けねばなら
ない。共生(symbiosis)が環境の時代のキイワードとなる理由で
ある。この地球上の様々な活動を時間と空間の折り合いを付けて最少のエネ
ルギーで運用しようとするわけである。今人類が持っているのは,今まさに
閉塞の際にある近代文明を造り上げて来た,近代科学の基礎知識と其の合成
の基本技術だけである。様々な空間の自然・社会環境の基礎情報(データー
ベース)に応じて,其れらをもう少し上手に使い,しかるべく組み合わせ,
再生可能な資源の利用範囲で人々が元気を失わない程度の緩やかな進歩
(sustainable growthの持つ意味)を期待しようと言う
わけである。そうして,その間に近代を超えた基礎科学のブレイクスルーを
期待しようとするのが,真の意味での先端科学である。

 図書館は近代まで情報集積の中心機構であった。これからも其の役目は変
わらない。しかしながら情報を利用するときの使用者側の要求が大きく変わ
り始めている。其の特徴は,1・極めて多くの情報を一度に必要としており,
所定の時間で必要な情報を処理することが要求されている。2・精密な情報
が様々な種類の事柄と様々な空間・地域について必要であり,それらは,個
個の一次情報の製作者によるのが最も良い。分散型社会の基本動作である。
従って3・地域・時間を隔てて基礎とするデーターベースに容易にアクセス
出来る様な情報システムを作らねばならない。4・情報システムは各部分が
お互いが支え合って全体を構成する事になるから,レベルの低い情報を持っ
ていても評価されない。お互いに支え合う為には,情報システムは共通性・
互換性を持っていなければならない。

 従って,使うための図書館の備えているべき条件は,環境の時代に入って
一段と高次化する事が要求される。コンピュータ・ネットワークが幸いにこ
の時代の鍵を担う技術として文明の中に颯爽と登場してきた。図書館が後近
代にも人類の文化・文明の活動の中から,進化を続ける文明の重要な要素を
選び出して保存し,事に処していくための実効ある足場として提供し,遅滞
無く人類の活動を駆動させる力とするためには,情報システムのネットワー
ク化と特徴ある一次資料のデーターベース化が緊要であり,使用者の教育の
中心となることもまた其の期待される役割である。


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