図書館という脳   ─副館長・北分館長に就任して
附属図書館副館長・北分館長 大平 具彦  

 
 有名なアメリカの宇宙天文学者のカール・セーガンによると、図書館とは、「人間が身体の外部につくりだした脳」なのだそうだ。彼は著書『COSMOS』(朝日新聞社、朝日文庫、1984年)の中でこう語る。
 
 私たちの遺伝子が、生き残るために必要な情報のすべてを貯えることができなくなったとき、私たちは、ゆっくりと脳を発明した。そのあと、おそらく1万年くらい前のことだろうか、私たちの脳のなかにたまたま納まっているものよりも、もっと多くのことを私たちは知らなければならなくなった。そういう時期がきたのである。
 それで私たちは、ものすごい量の情報を、遺伝子でも脳でもないところに貯えることを学んだ。このように、からだの外に、社会的な〝記憶〟を貯える方法を発明したのは、この地球上では私の知る限り人間だけである。そのような〝記憶〟の倉庫は、図書館と呼ばれている。
 
 つまり、図書館は人類(ホモ・サピエンス)がつくりだした「社会的な脳」なのである。社会的な脳であるからして、そこに貯えられた巨大な記憶装置を独自に編集して、まさしく人類の歴史を書き換えてゆくような新しい知見がそこから生まれてゆく。その最も良い例のひとつとして、たとえば、ロンドンに亡命していたマルクスが大英博物館の図書館で書き上げた『資本論』の例が挙げられるだろう。当時、大英博物館の図書館には新たに円形の大閲覧室が設けられ、364もの研究者用閲覧席と2万冊の参考図書コレクションを配備して、研究環境の良さと資料利用の便利さが評判であったという。勃興期の資本主義経済に関する文献データを豊富に蔵したその「社会的な脳」がなかったら、果たしてマルクスの『資本論』は生まれていただろうか。そして『資本論』が書かれていなかったら、20世紀の歴史を決定づけたあのロシア革命は起こり得たのだろうか。だとするならば、ナチズムや第二次世界大戦は……?いずれにせよ、現代世界の歴史は、人間が実際に経験してきたものとは根本的に様相が異なっていたに違いない。
 
 図書館史をひもとくと、人類最古の図書館は、古代オリエントで、紀元前3000年頃につくられたようである。それは「文書」あるいは「書」なるものを保存・保管した場所であって、「書」すなわち「書く」という表現に端的に示されているように、図書館の歴史は、文字の発達と分かちがたく結びついている。人類は文字をつくりだし、それを用いて社会的記憶を身体の外部に脳化し始めたわけである。では、文字が書として流通するようになるまで、社会的記憶はどう保存されていたか。それは、言い伝えや口承のかたちで、集団的記憶あるいは神話として、語り部や神官と称される人間の脳の中に、まさしく記憶として貯蔵されていたのである。それは遠い太古の時代から、そして非文字社会ではしばらく前まで続いていた。近い例で言えば、スペインに滅ぼされたアステカ帝国(今のメキシコ)には絵文字しかなく、われわれが通常考える文字はなかったのだが、スペイン人は、自らの社会の成り立ち由来をはるか彼方の時代から、淀みなく次から次へととうとうと語るアステカの賢者らの雄弁術に、驚嘆の念を覚えずにはいられなかったという。社会的な記憶は、口承や暗誦、すなわち声というメディアによって、優れた者の脳へのインプットとそこからのアウトプットを通して、世代から世代へと保存され伝承されていたのだった。

 今、メディアという語を用いたが、メディアを(メッセージの)「媒体」という本来の意味で考えるならば、声や文字(つまりは言葉)こそが、人間にとって最も根幹的なメディアであることは容易に確認できよう。そればかりではない。言葉というメディアこそがヒトを人間へと進化させたことからも端的に示されているように、メッセージ(情報)の授受を可能にする「媒体(メディア)」がなければそもそも人間という存在はあり得ないことを考えるならば、人間があってメディアを道具として使用するというよりも、メディアの働きの中でこそ人間という存在はつくられてゆく、ととらえた方がより実相に近いだろう。そして、図書館の成立とも密接にからむ声から文字へのメディアの移り変わりは、人間の思考と歴史に決定的な作用を及ぼした。
 先の例を取り上げるならば、わずか数百人のスペイン人が数万の軍勢を誇るアステカに勝利し得たのは、ダイアモンドも『銃・病原菌・鉄』(草思社、2000年)の中で記しているが、スペイン側が文字を持っていたことが決定的な要因であったと思われる。ヨーロッパ・スペインは、文字を通して、活字印刷で書かれた書物を通して、声のメディアでは遠く及ばない軍事技術、地理的知識、相手に関する情報を大量に持っていて、それが最終的には勝敗を左右したのだった。16世紀初めに起きたスペインによるこのアステカ征服は、文字というメディアが声というメディアを圧倒し去った歴史として記憶されるべきだろう。これがコロンブスのアメリカ発見を受け継いで、後のヨーロッパによる世界の植民地化の始まりを告げることになった点を思えば、メディアというものが人間に対して持つ重大さに厳粛な気持ちにならずにはいられない。
 
 こうして当時のヨーロッパに膨大な知識が貯えられるようになっていった背景には、近代的な形を取りつつあった図書館というメディアが大きく寄与していた。つまりヨーロッパは他の地域に先駆けて、社会的な脳を、大規模に明確な意識をもって構築していったわけである。近代以降の世界をヨーロッパが支配し得た力の源泉のひとつは、おそらくはここに存しているのではなかろうか。それを決定的にしたのが、言うまでもなく、1450年頃にグーテンベルクによって発明された活版印刷メディアである。その技術による初めての印刷本(『グーテンベルク聖書』)が世に出てからわずか50年間で、印刷された書物は一挙に3〜4万点に達し、16世紀にはこれがさらに15〜20万点へと激増して、その後この増大傾向は一層拍車がかかってゆく。さらに重要なことに、一方で印刷メディアは、それが流通する上での共通語すなわち国語と、その言語を共有する意識すなわち国民意識を形成していった(アンダーソン『想像の共同体』、1987年、リブロポート)。こうした流れの中で、国内で出版された書籍は全て所蔵するという思想に基づく近代国家の国立図書館(フランス国立図書館、イギリス大英博物館図書館、アメリカ議会図書館等々)が生まれていったわけである。図書館という社会的な脳は、近代に至ってこうして巨大な殿堂へとハードディスク化されたのだった。それは、言うなれば、印刷メディアが作り上げた国家的、国民的なスーパー脳であり、個人の脳はそこに接続することで途轍もない容量アップが可能となったのである。19世紀から20世紀にかけてのイギリス、フランスの国力(文化力・科学力)、そして20世紀に入ってからのアメリカの国力(文化力・科学力)は、こうしたスーパー脳と結びついていたと言っても、決して過言ではないだろう。そしてまたこのことはとりも直さず、ある国、ある大学、ある自治体の知力とは、そこがどのような図書館を有しているかという点と不可分であるということをも物語っていよう。
 
 そして今、われわれは、活字印刷メディアから電子メディアへの移行というこれまた途方もなく大きな文明史上の革命の時代を生きている。今や地球の表面はくまなくと言っていいほどネットワークで覆われ、これまでは図書館という器に局所化されていた社会的な脳は、スーパー脳すらもやすやすと越えて、地球規模でネットワーク図書館化してゆくハイパー脳へと凄いスピードで進化しつつある。そこでは図書館という機能はどう変容してゆくだろうか。また人間の個々の脳は、そのハイパー脳とどう結ばれてゆくのだろうか。図書館機能という点では、何をどれだけ所蔵しているかということよりも、しかるべきサイトにどう繋がってゆくかという接続機能がより重要な意味を持ってくるだろう。また情報データをどう貯蔵するかということよりも、情報をどう使うかを利用者に提供できる情報政策面がますます重要視されるようになるだろう。その一方で、これまでの人間の思考と文化を導いてきた活字メディアは、電子メディアと共存しつつ繋がってゆく上で、しっかりと維持展開されてゆかねばなるまい(アメリカの公共図書館は電子化を進めながら印刷体の収集にも多大な力を注いでいるという)。
 そして個々の脳が花開くためには、それ自体がいい土壌となっていなければならないのは勿論であるとしても、これまでのようにそれだけで充分というわけにはゆかず、それがハイパー脳とどう豊かに繋がってゆくかがおそらく鍵になるのではないだろうか。アメリカの人類学者クリフォードは「アイデンティティーとは、本質的なものではなく接続的なものだ」と書いている(Clifford : The Predicament of Culture, 邦訳『文化の窮状』、人文書院、2003年)。クリフォードのこの言葉は、今日の多元文化状況における個人のアイデンティティー、さらには個々の文化のアイデンティティーについて述べたものであるけれども、それは、このハイパーネットワーク時代の個々人のありようについても妥当するはずである。自身が持っているものだけに自足したり閉じこもるのではなく、「接続し」、「繋がる」こと──、21世紀のキー・ポイントはここに存しているように思われる。

 最後に──。確かイタリアの作家モラヴィアの小説の中だったと思う。主人公がある大きな図書館に入ってその蔵書に圧倒され、これぞ人間の知の殿堂であるという思いに浸るのだが、しかしそのすぐ後で、実はその巨大な知の集積の向こうに、人間が言葉にしなかったこと、あるいは言葉にされなかったことが無限に広がっていることにふと思いが行って、さらに一層深い感慨に浸るという場面があった。学生時代にその場面を読んで、なぜか妙に感動した覚えがある。ここでこうした話を持ち出すのは、何も図書館に蔵されているものが人間の巨大な営みの中のほんの一部なのだと言いたいがためではない。そうではなく、ひとつには、図書館という社会的な脳は、宇宙の無限の闇の中に浮かぶ生命と知の惑星の地球にも似て、ヒトが人間となってこれまで生きてきた不定形な無限の広がりの中の一種の奇跡にも近い出来事のように思われるからであり、また一方では、とは言え、スーパー脳あるいはハイパー脳へと進化しても、われわれが貯蔵している知のまわりには、依然として、われわれには知り得ないことが膨大な海のように広がっているという厳粛な事実に対して、あくまでも謙虚でいたいと思うからである。冒頭のカール・セーガンの言葉も、そうしたことを含意しているのではないだろうか。


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