櫻井 恒太郎
(医学研究科医療情報学分野教授)
はじめに
一般教育演習への出講を求められたのを機会に「情報管理学—健康科学とコンピュータ」というタイトルで新 入生向けの演習を始めて3年目になる。これまで医学部や医療短期大学部の学生を相手に心臓病や医療情 報学の教育を担当してきたが、他学部を含めた新入生の教育には参加することがなかったので、情報リテラシ ー教育のために開発した教材や手法が新入生にも受け入れられるかを試すよい機会と考えた。また、医学生 に必要な情報処理能力は他の専門分野でも有用な技法であり、早期の習得は新入生にも役立つのではない かと考えたからである。その経験をここで紹介したい。
医学部における情報処理教育の目的
の背景にある疾患は千差万別であるうえに、電気回路とは異なって故障個所と症状の関係は確立していな い。問診や診察によって集めた不確定さの残る情報を手がかりに検査を行って、いくつかある方針のうち最良 と思われるものを選ぶが、救急患者では数分以内に、比較的余裕のある入院患者でも1〜2日のうちに生命に かかわる決定をしなくてはならない。適切な選択が出来るためには、問診や診察の技能に優れていることも当 然必要であるが、診断に漏れがないようにするには幅広い知識が必要になる一方で、専門領域での最新の研 究の成果をも知っていて治療方針の比較評価をしなくてはならない。このような知識をまとめた治療指針(ガイ ドライン)も増えているが、主治医としては一般的な知識を知っているだけでは不十分で、さらに患者個人の特 性や価値観を選択に組み入れる役割をも果たさなくてはならない。 医学の高度の専門分化と医学知識の早い更新により、これまでの専門教育によって覚えた知識と経験に基 づいた方針選択ではこのような状況に十分な対応ができないことがわかってきた。すなわち、必要な情報をそ の場で集め、その信頼性を評価し、複数の方針を合理的に比較し、それを患者や同僚に伝える、という情報リ テラシーの教育が必要となっている。医療情報学の教育も当初はコンピュータの使い方を主とする「コンピュー タリテラシー」の教育からはじまったが、現在ではパソコン操作に慣れた学生が増加して電子メールや情報検索 の基本的な操作説明はほとんど不要になっており、より重要な「情報リテラシー」の教育に時間を割くことができ るようになった。この中には、医学文献を中心とする情報の検索、検査の的中率などの情報の評価、論文の批 判的吟味、判断分析、費用効果分析などが含まれる。医学部5年生の問題解決形実習では、情報検索につい て医学図書館の協力を得て実施しており、その様子は『楡蔭』106号に松尾氏による紹介記事が掲載されて いるのでご参照いただければ幸いである。
新入生向けのカリキュラム 新入生向けのカリキュラムには、キャンパスの情報源を活用した情報検索、論文の評価方法、テーマを決め ての問題解決実習、の3つを組み入れた。キャンパスにおける情報源の活用では、全員を情報メディア教育研 究総合センターのコースに登録し、適宜、端末室を用いての実習を行った。キーボードの操作を教える必要の ある学生は年々減っているが、タイプに不慣れな学生にはtypequickを貸し出して自習を促した。 また、問題解 決のための資料の検索にあたっては代表的な2次資料であるMedlineやWWW上の検索サイトを紹介するほか、 北分館で行われるオリエンテーションへの参加、学内の図書館での資料調査に加えて、関連の研究を行って いる学内の教官、研究者を検索してインタビューを申し込むように奨励した。 コンピュータの使い方の教育については時間的な制約があることと、「情報処理」を履修する学生が多いこと から、このコースでは最小限の説明と実習(E-mail,インターネット検索、パワーポイントの使い方)に止めたが、 未経験の学生が多いグループではパワーポイントでの資料作成に苦労することがあった。ただし今年はデモ程 度の演習だけで画像やビデオを交えた上質の発表を作成できるようになり、新入生のコンピュータリテラシーが 年々向上していることを実感する。
論文の批判的吟味
張の信用度をAからDにランク付けする討論をグループで行って発表会を行った。この演習に先立って健康科 学における研究デザインの種類と、研究計画の論文に含まれる様々な偏り(bias)を例示し、とくに交絡因子 (confounding factor)について重点をおいた講義を行ったうえで、論文の主張にそのような落とし穴が隠れてい ないかの評価をもとめた。教材とした論文は「父親の職業が有機溶剤に関連していることと、子供の癌の発生 に相関がある」ことを主張した症例対照研究(case-control study)で、20年以上前にカナダで報告されたもので ある。研究者のひらめきを簡単な研究計画で集めたデータにより証明しようとした論文で、医学部4年生での演 習に用いた教材である。新入生向けには医学用語の単語集を追加して配布した。 短い論文であり主張も簡潔ではあるが学術論文を英語で読むのは初めてという学生がほとんどであるた め、最初の年には訳と問題点の指摘を同時に発表させたところ議論の深まりが十分とはいえなかった。そこで まず全部を分担して訳し、その後に問題点を考える期間を置いたところ活発な議論になった。 しかしながら、 批判的吟味の結果についてはまだ考察が不十分であった。癌の発生について職業分類別統計的に有意な差 が認められた内容であるが、これを覆す可能性のある交絡因子をいろいろ指摘してほしかったのに対し、「有 機溶剤の種類が調べられていない」、「母親の職業が調べられていない」、など、次の研究で検討すべき点の 指摘、すなわちこの論文での著者の主張を認めたことになる点を信頼性にかかわる重大な問題としてリストす る場合が多くみられた。この点では医学部の4年生においても同じ傾向があった。この評価の立場の矛盾を指 摘されることは学生にとって新鮮な学問的刺激になっているようで、批判的吟味の意義を認め、思考訓練が必 要であるとのコメントが感想として寄せられている。
問題解決実習 問題解決実習では、グループ毎に日ごろ疑問に思っている健康科学に関連した疑問や問題点を一つ選び、 それについての情報収集を約1ヶ月間行った後、発表会を行った。プレゼンテーションはパワーポイントで行う ことを義務づけた。毎年、20〜30人の学生が登録し、ほとんど全ての学部から参加者があったので、コンピュ ータ利用の経験が偏らないように配慮しながら異なる学部の学生で4〜5人でグループを編成した。感心した のは、一旦登録してコースが始まったあとは毎年、脱落者が全くなかったことであった。 問題を選んでの実習テーマとしては、初年度は「電磁波の影響」、「花粉症」など常識的なテーマが多かった が、これは、あらかじめ教官が例をあげたことが影響したと思われる。翌年から「健康に関連した問題」とだけ の説明にしたところ、「かなしばりについて」、「月の満ち欠けの健康への影響」、「癒しについて」、「宇宙に永住 できるか」などユニークなテーマが選ばれている。 グループでの発表は1題に30分をあてた学会形式とし、座長も交代で務めると同時に研究内容とプレゼン テーションの出来具合を相互に評価した。普段の講義ではあまり積極的でない学生もグループでの発表や質 疑応答では大変活発である。
授業の評価と感想
や情報収集に対して積極的になったことを自覚し、またグループ活動によって他学部の学生と親しくなったこと を評価していた。「受験勉強を通じて、答えがあることがわかっている問題を解くことに慣れている学生に、大学 の勉強を実感させることができる数少ない授業だと思いました」「文献を検索していて、これが大学生の勉強だ と思った」などのコメントが多数得られたことは、一般教育演習の目的として掲げられている「フレッシュマンセミ ナーとして大学での学修の仕方を学ぶ」ことにまさに適合した感想であり、我が意を得た気持ちである。 他方、情報収集や発表の準備のためには放課後や休日にグループでたびたび集まることが必要となった。 新入生もクラブ活動やアルバイトで予想以上に忙しく、また授業の課題のために私的な時間を提供することに 抵抗もあり、グループのまとめ役の学生は苦労したようである。 教官としても得るところは大きかった。15回のコースはTA1人の助けがあれば十分、行うことができるし、 教えていて楽しいクラスになる。教官一人が奮闘している多くの専門教育は概して詰め込みすぎで、学生が質 問する暇もないのでは、と気づかされる。新入生の学生気質とコンピュータリテラシーの程度がわかると、3年 後に医学部の専門課程で教える学生がどのように変わるかの見当もつく。 この経験を基に、医学部における情報教育もさらに変えて行かなくては、と考えるこの頃である。
ご意見を歓迎します(tsakurai@med.hokudai.ac.jp)。 このカリキュラムの詳細、学生の作った 発表、感想文などはホームページ (http://info.med.hokudai.ac.jp/dept/mi-home.htm) に掲載 されているので併せて参照していただければ幸いです。 |