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大学で哲学を学んでいた時、先輩から「結局ドイツ観念論哲学というのは、フィヒテとシェリングとヘーゲルがカントをどのように“誤読”したかの歴史だ」と言われて、へえぇ、そんなもんなの、と思ったことがある。この本は、帯に書かれた「壮大な伝言ゲームの果てに。」という一句に惹かれて買ってしまったのだが、読んでみると結構面白かった。その面白さというのは、-著者には申し訳ないけれど-謂わば底意地の悪い面白さで、これまでの翻訳者(=謂わばその学問の世界ではお偉いさん)や、さらには道元や親鸞などの宗祖までもがどのように仏典を誤読してきたかが、宗教的な立場以前の語学的なレベルで暴かれているところにある。
著者自身はそうした表層的でサディスティックな読み方を要求しているのではなく、その誤読に学術的・宗教的にどのような問題が潜んでいるかを明らかにしようとしているのだけれども、僕のような根性の悪い人間は、人の揚げ足をとることの快感をどのように得るかという観点から読んでしまった。そして、人の揚げ足をとれるようになるためには、恐ろしいほどの量と深さの勉強が必要だということを思い知った。そのような意味でも極めて有益だった。
一言言えば、上記のような(真面目な)観点で書かれているので、叙述は、誤読や意訳が仏陀の本意からどのようにずれていったかという方向に向かっている。そのため、タイトルから想像されるような、現在の仏教からさかのぼって仏陀の説いたことを明らかにするという内容を期待して読むと、違和感があるかもしれない。 |