カリフォルニア大学(バークレー)とオハイオ州立大学の図書館


附属図書館情報システム課学術情報掛長

高砂 慶

(現在:山形大学附属図書館事務部長)

はじめに

 私は、昭和63年度北海道大学国際交流事業基金により、9月11日から2週間の日程でアメリカ合衆国の大学図書館を訪問する機会を与えられました。この事業による派遣としては、図書館職員として初めてであり、また、私個人にとっても初めてのアメリカ訪問であっただけに、短い日程ではありましたが、責任と緊張に満ちた旅行となりました。

 サンフランシスコ国際空港に降り立ち、さて次にどんな行動をとったらよいのか決めかね、さりとて呆然と立ち尽くす訳にもいかず、空港ビル内をとにかく、目的ありげに歩きまわることからこの旅行は始まりました。バスに乗ること、タクシースタンドを探すこと、食事、ホテル、挨拶、国内の時差、自動販売機、電話、交通標識、トイレ...慣れてしまえば何でもないことが、初めての私の前に次々に展開し疲労困憊させます。人によっては、旅行の醍醐味は、あるいはこのような慣習、様式の違いの中に自分を置いてみることなのかも知れません。これらの一つ一つを、時にはごまかしながらも何とか切り抜け、シカゴで帰りの東京行きの飛行機に座席を見い出した時は、仕事のことは抜きに、責任の大半を無事終えたような安堵感を覚えたというのが正直なところです。

 さて、私の旅行目的は、カリフォルニア大学(バークレー)とオハイオ州立大学における図書館の実状調査、特にコンピュータを利用したシステム化の実態を調査することでした。二大学とも、全米で屈指の規模を誇る州立大学で、かつ、コンピュータの利用システムの面でも、アメリカの大学において主導的役割を果たしてきています。コンピュータの利用といっても、オンラインシステムによる端末からの利用者検索型を志向したシステムの開発は、アメリカにおいてもそれ程歴史がありわけではなく、1970年代半ば以降のことです。その点、オハイオ州立大学が利用者のための検索システムを完成させたのが1975年であり、最も早いものの一つと言えます。カリフォルニア大学は、その6年後の1981年からオンライン目録のサービスを開始しております。オハイオに比べ、出発が遅れた分、改善された新しいシステムと言えます。しかも、カリフォルニアの場合、州全土に散在するカリフォルニア大学の各キャンパス、例えば、ロサンゼルス、デービス、サンディエゴ、サンフランシスコ等を結んだネットワークシステムであり、それ自体が「学術情報システム」と呼んでも差し支えない程の規模のものです。先発館としてのオハイオ、後発館としてのカリフォルニアは、それぞれの時点で、日新月歩のコンピュータ技術を十分取り込んだシステムとして、他に大きな影響を与えてきました。したがって、私は、代表的なこの二つの大学を見学することによって、アメリカの大学図書館がコンピュータを用いてどのようなシステム構築を目指したのかが窺えるのではないかと考えました。もちろん、私の念頭にあったことは、北大の図書館システムとの比較であり評価でありました。

カリフォルニア大学(バークレー)

 カリフォルニアには、州立の高等教育機関としてカリフォルニア大学のほかに、カリフォルニア州立大学があります。こちらは、カリフォルニア在住の学生を主とした4年制の学部中心の大学で、州の19カ所にキャンパスを持ち、学生の総数は30万人以上とのことです。これに対して、カリフォルニア大学の方は、大学院に重点が置かれ、研究のレベルは高く全米から学生が集まってくるとのことです。州の9カ所にキャンパスがあり、この9校の統合体がカリフォルニア大学であり、バークレー校はその本校です。

 バークレーは、サンフランシスコの衛星都市の一つであり、サンフランシスコの中心から高速地下鉄で25分(1ドル80セント)で到着します。バークレー駅周辺の中心街には少し目立つ背の高いビルが二つあるばかりで、人通りも少なく、これといった特色も見受けられないどこにもありそうな町でした。しかし、駅から5分も歩くと大学のキャンパスの一角に到着します。1960年代後半の学生運動発祥の地であり、また、ヒッピーの本拠ともなったこのキャンパスは、ゆるやかな起伏のある丘陵地帯に自然と調和させながら、見事に建築群を配置してありました。少し薄汚れた感じのする町の印象とは対象的に、構内の手入れは隅々まで行き届いており、大学のシンボルである時計塔、セイザータワーが静かに時を告げている様は、伝統ある学問の府としての雰囲気そのものでした。

 中央図書館であるドーライブラリーは、セイザータワーと道路一つを隔てて、キャンパスの中心に位置していました。大学に到着早々、まず、高さ94米のセイザータワーの展望台にエレベーターで昇ると、大学構内が眼下に、また、サンフランシスコ湾が一望の下に展けます。構内では散水車が道路沿いの植物にゆっくりと放水しながら走っています。所々に植木の手入れをしている人が見られます。杉や樫の大樹が茂る森も見られます。しかし、ここの構内は、北大の広さを知っている私には、むしろ意外なほどコンパクトにまとまって見えました。早朝、学生達は、構内のあっちこっちの入口から黙々と吸い込まれるように集まってきます。そして建物の中へと消えていきます。これはどこにも見られぬ風景なのでしょうが、昼には全く予想もしなかった光景が展開しました。南門を中心に学生が集まってきます。南門を入るとすぐ左手に学生生協があるのですが、ここには食堂の設備があり、建物の内から外、付近一帯が昼食の場となります。雨が少なく年中温暖な気候に恵まれたこの地では、戸外での食事もごく普通のことかも知れません。屋台まで出てハンバーガー、サンドイッチ等を売り始めます。焼肉屋も登場します。ベンチや縁石、土手の芝生、あらゆる場所に座って食事をしたり語り合っています。こうして人が集まると、ビラを配る者が出てきます。演説を始める者もいます。歌う者も、楽器を演奏する者もいます。裸の学生もいます。もちろん、人種のるつぼと言われるアメリカのこと、様々の顔、様々のスタイルがこの昼休みに渾然一体となってキャンパスの雰囲気を一変させます。しかし、やがて時間と共に人は去り、何事もなかったかのように平静に復していく様も、私には意外でした。中央図書館で数日を過ごした私は、昼には南門に出かけ毎日この変化を楽しみました。学生数3万1千人を擁する大規模校とは思えぬほど、構内は静穏です。その象徴が中央図書館で勉学する学生の姿と言えるかも知れません。

 大学の図書館の組織は、中央図書館を柱とする「総合図書館」と若干の特殊図書館群との二つに分かれています。総合図書館は、中央図書館、学部学生用のモフィット学生図書館、アメリカ西部及びメキシコの歴史資料を収集しているバンクロフト図書館、そして、22の分館から構成されています。特殊図書館群の中では、49万冊の法律図書館が最も大きく、国際研究所、交通研究所、水資源センター、カウンセリングセンター等々、20以上の研究機関、施設が図書室を備えています。法律図書館を除いたこれら特殊図書館の蔵書合計は78万冊、したがって、特殊図書館群としての蔵書冊数は127万冊です。大学全体では703万冊ですから、総合図書館の蔵書は、576万冊です。法律を除いた主要学部の図書館は、すべて総合図書館の組織下にあり、その点では、図書館機能の集中化が行われていると言えます。この総合図書館の機能を支えるスタッフは475名、うち125名がアカデミックライブラリアンと呼ばれる専門職員です。そのほかに約700名の学生アルバイトがパートで働いています。パートといっても2~3時間勤務が多いとのことです。総合図書館は、中央図書館等25の図書館の単なる組織上の集合体ではなく、例えば、資料の整理業務は、中央図書館で一括して処理した後、配送するというシステムを採用しています。したがって、中央図書館は正に、大学における図書館機能の中枢として位置づけられ、サービス業務を主体とする各分館との機能分担を図って総合図書館は運営されています。総合図書館の蔵書の約4割近い200万冊は、バークレーから約8キロ離れたリッチモンドに保存庫があり収納されています。バークレー地区の収容能力が限界に達しているため、利用頻度の低い図書を選択して移している訳です。保存庫とは言っても、後に述べる蔵書検索では場所が示されており、利用を申し込むと翌日入手できるようになっています。また、大学院生と研究者は入庫することも可能で、無料バスが利用できます。

 中央図書館は、総合図書館の機能の大半と、資料的には、人文・社会科学のセンター的役割との両面を担っています。蔵書数は310万冊ですが、書架の容量は160万冊で、約半分はリッチモンドに保管されています。学部学生用の図書館が道路一つを隔てて隣接していることもあり、中央図書館の主対象は、大学院生以上の研究者にあるようでした。書庫への入庫についても、学部学生は教官の照会状を必要とするとのことでした。開館時間は、月曜日から木曜日までは朝9時から夜10時、金曜日と土曜日は9時から5時、日曜日は午後1時から10時です。ちなみに、学部学生用のモフィット学生図書館の場合、月曜日から木曜日は朝8時から夜12時、金曜日は8時から6時、土曜日は10時から6時、日曜日は10時から夜12時まででした。

バークレーにおける図書館のコンピュータ利用システム

 バークレーキャンパスにある図書資料を検索しようとする場合、オンライン目録グラディス(GLADIS)とカード目録の二つを利用します。グラディスには、1988年8月8日現在で、2,090,057冊の資料が登録されています。バークレーでは、1977年から目録業務をコンピュータ入力に切替えました。したがって、1977年以降受け入れた資料と遡及して入力している分がコンピュータで検索できます。カード目録は1980年をもって中止されましたが、1981年以降は、現在の北大と同じ状況で、資料の年代によって二つの手段を使い分ける必要があります。遡及入力については、財政的理由から逐次進めていくしか方法がないとのことで、図書館のコンピュータ化で最も大きな課題として残されている事情はアメリカも日本も同じなのかなと思ったことです。現在、専任のスタッフが3人と週15時間のパートの学生5人が遡及入力作業に従事していました。書架目録のカードを端末の脇に置いて、日本の学術情報センターに相当するオンライン・コンピュータ・ライブラリー・センター(OCLC)に接続して入力している風景も北大附属図書館で見慣れたものでした。昨年1年間で8万冊を入力したとのことでした。

 グラディスは、カード目録に代わるオンライン目録としてバークレーキャンパスの蔵書検索を目的としていますが、カリフォルニア大学の9キャンパスすべてとカリフォルニア州立図書館を合わせたオンライン総合目録メルヴィル(MELVYL)が別にあります。グラディス用の端末とメルヴィル用の端末が並んで置かれ、利用者は目的に応じて使い分けていました。中央図書館の2階にある利用者サービスのメインフロアーには、両方の端末合わせて20数台がカード目録に向き合って配置され、空きを待つ人がいるぐらい良く利用されていました。両方のシステムとも、資料の検索だけではなく、例えば、図書館の利用案内とか、検索システムの説明とか、あるいは、データベースの入力状況、端末の利用状況等がメニューを選択することによって知ることができるようになっています。グラディスの場合は、利用者からのメッセージも入力できるようになっています。システムに寄せる利用者の声もかなりあるようで、検索システムを説明してくれたレファレンス・ライブラリアン・カッツ氏は私にその声の束をちらりと見せて笑っていました。グラディスとメルヴィルの違いは、メルヴィルがグラディスの情報量を包含しているということのほかに、検索の方法も若干異なります。著者名、書名、件名、標目からの検索については同じですが、これらに含まれるワードからの検索は、メルヴィルにおいてのみ可能です。メルヴィルのシステム本体はバークレーにはなく、オークランドにあるということなので、中央図書館の地下にあるグラディスのハードシステムのみを見学させて貰いました。主メモリ15MB、ファイル容量14GBとのことですので、既に200万冊という大量データを有しているグラディスを改良して、ワードを切り出し検索システムを拡張するということは、北大のシステムから推定しても、現状では困難なのかも知れません。

 グラディスは、図書館資料の貸出システムと連動して、所在情報を提供する一方、目録作成システムをも持っています。図書館が受け入れる資料全体の約8割は、OCLCに既にデータがあるため、コピーカタロギングと言われる簡易入力作業で済みますが、残りの2割については独自にデータを作成する必要があります。このオリジナル入力作業は、議会図書館の目録作成に準じた密度の高い作業となるため、1冊について40分から45分かかるとのことです。したがって、バークレーでは、オリジナル入力については、通信料金の点から、オンラインでオハイオ州のOCLCへ入力するのではなく、グラディスに入力し、一定量蓄積されるとテープでOCLCへ送っています。なお、データの送付は、バークレー図書館がOCLCのほかに、スタンフォード大学に本拠を置く研究図書館グループ(RLG)の有力メンバーとして加盟していることもあって、こちらにも送付しています。また、コピーカタロギングでOCLCに入力したデータのダウンーロードは、バークレーではまだ行われていず、OCLCからテープで入手しています。バークレーキャンパスのグラディス端末は200台、内、業務用のは75台、また、メルヴィルのデータ量は、9月15日現在のシステムからのメッセージでは、453万3903タイトル、954万6千冊、雑誌は、63万6895タイトルで所蔵データ件数は、119万1952件でした。

オハイオ州立大学

 東のハーバード、西のバークレーとはよく言われているようですが、シカゴから飛行機で1時間足らずのオハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学は、学生数5万8千人で1キャンパスとしてはアメリカで最大とのことでした。創立は1870年で農学部を中心に発展してきました。州都コロンバスの人口が55万人ですから、約1割が学生ということになります。到着した日の翌日が新学期の始まる日に当たり、閑散としていた構内は翌日から活気を帯びていました。駐車場は学生の車でまたたく間に一杯となり、広い構内を自転車で移動する学生が目につきます。夏休みの間、夜8時までであった図書館の開館時間も、この日から朝の7時45分から夜の12時までとなります。土曜は8時から夜12時まで、日曜は11時から同じく夜12時までです。日曜開館はバークレーと同じでした。

 図書館の組織は、バークレーと同じように集中型で、中央図書館、学部学生図書館のほかに22の分館から構成されています。医学図書館と法律図書館のみは組織上は別になっています。しかし、図書館コントロールシステム(LCS)と呼ばれるオンライン目録システムには両館とも参加していますので、LCSには大学の全蔵書が入力されていることになります。図書館長の下に3人の副館長が、中央図書館サービス部門、学部学生図書館及び分館部門、受入・整理部門をそれぞれ担当しています。職員数は290名、内、ライブラリアンは90名です。バークレーと同じように、その他に学生アルバイト300人が州12時間から20時間のパートで働いています。アメリカでは、専門職と非専門職との間では、かなり明確に仕事の分業が行われているようでした。整理部門においては、OCLCを利用して目録作成を行うようになった十数年以前から次第に顕著になってきたようで、それが組織にも反映していました。受入・整理部門は、収書部と目録部に分かれ、目録部の中は、検索係、コピー目録係、オリジナル目録係、特殊コレクション目録係、雑誌目録係、目録維持係、目録立案係と細分されています。この名称にも表われているように、コピーカタロギングの担当は組織上二分され、専門職としてのカタロガーは、オリジナル目録係に配属されていました。バークレーでも全く同じ状況を目にしたのですが、コピー目録係の部屋はブックトラックに乗せられた図書で溢れ、忙しそうに職員が立ち働いていましたが、オリジナル目録係の方は人も少なく、静かにデスクワークをしていました。端末の数が不足しているという理由も挙げておりましたが、オリジナルカタロギングの方法は図書を見て直接入力するという方法はとっておりません。カタロガーがワークシートに記入したものを、学生アルバイトが入力し、学生アルバイトが入力したものをコピーカタロガーがワークシートと点検するという手順で目録が作成されていました。カタロガーが一件の目録に要する時間は、やはり45分から場合によっては一時間もかかると、目録部長の日本人、森田一子さんは嘆いておりました。OCLCを利用した共同目録作業である以上、どうしてもカタロガーは神経質にならざるを得ないとも言っておりました。また、議会図書館の分類表、同件名標目表の採用が標準的となっているアメリカの大図書館では、この主題付与関連の作業が目録作業の大きな部分を占めているのではないかと、私には思われました。

 中央図書館の特徴の一つは、参考図書室が主題別に配置されている点です。一階には、一般的な辞典類、書誌類、カード目録等が置かれていますが、二階と三階はそれぞれ四つ位のコーナー毎に、特色ある主題分野の参考図書、新聞、雑誌をそれぞれ配架してありました。ここの中央図書館もやはり人文、社会科学系の収書を基本方針として、専門のレファレンスライブラリアンが利用の相談に応じています。コーナーとしては、西ヨーロッパ・北アメリカ史、アフリカ、東アジア、中東アジア、ユダヤ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパ・スラブ、古典文学、言語学、ドイツ語、ロマンス語、女性問題等がありました。この主題別配架は、一般的な図書館の分類配架とは異なり、その図書館の利用者への対応という側面から選択され並べられるものであり、利用者サービスの一つの積極的形態と言えると思います。利用者サービスの点では、この図書館が発行する様々の利用ガイドは、利用者が抱く問題別に手頃な一枚ものの印刷物となっており、参考になると思われました。

オハイオ州立大学図書館のコンピュータ利用システム

 OCLCがオハイオ州立大学図書館を中心メンバーとして発足した20年前とは異なり、現在OCLCは全く独立した機関です。OCLCの設立は1968年活動開始は1971年ですが、この目録作成システムの稼働と並行するように、1970年、オハイオ州立大学図書館はベンダーによる貸出システムとしてLCSを導入します。OCLCは当時、専らカード作成が主目標であったため、OCLCとは別個に、LCSをローカルシステムとして発展させ、簡略データによる遡及入力を完了して1975年、オンライン目録を利用者に提供し始めます。1978年以降は、以前に入力した分も含めOCLCから書誌の詳細データを得てLCSに登録し現在に至っています。LCSの導入の目的が単に貸出管理にとどまらず、学内における資料の所在情報を管理し、これを利用者に提供しようとした点、また、当時300万冊を超えていた全蔵書について、簡略とはいえ入力を完成させた点で、図書館としての見識を示したものといえるでしょう。最近は減ったとは言っておりましたが、電算化の見本として見学者は後を絶たなかったようです。私が説明を受けている間も、別の図書館員のグループがオンライン検索を見学していました。ここの図書館も、収容能力が限界に来ているとのことで、保存図書館の要求を出したら、その前にオハイオ州内の総合目録を作る方が先決との州理事会の決定があり、OCLCの初めの目標であったオハイオのローカルシステムの再構築の課題が皮肉にもまた図書館に課せられているとのことでした。LCSの拡張ではなく、全く新しいシステムを構想中とのことで、何年後かにはまたオハイオが脚光を浴びるのかも知れません。

 大学全体にかかわるコンピュータの利用については、ここでは、コンピュータセンターの管轄となっており、図書館のシステムも本体はセンターにあります。コンピュータセンターのシステムは、大きく三つに分けられ、1、研究・教育用、2、学内運営用、3、医療用となっており、図書館は二つの学内運営システムの一つと位置づけられています。システムの運用についてはセンターの委員会に図書館から責任者がメンバーとして入り、重要事項はその場で決めれられますが、具体的レベルの問題については、センターのシステムアナリストと図書館側からシステムに関係する専門家4~5人との間で十分連絡を取り合いながら進めているとのことでした。

 LCSには全蔵書が登録されているとは言え、1971年以前の簡略データは著者名、書名、請求記号のみで件名は持っていません。カード目録には詳細データは記録されて件名目録もありますが、1982年以降は廃止しています。この関係を図書館側は端末利用者に注意を喚起しております。端末の周辺には、LCSの操作法の簡単なガイドのほかに「LCSとカード目録」というガイドも必ず置いてあります。件名目録の経験のない私達には、簡略とはいえ著者名、書名、請求記号から全蔵書の所蔵状況が検索できれば十分のように考えますが、オハイオではこれに満足していません。現在詳細データの割合は38%とのことで、遡及してまで簡略から詳細へ切り替えようとしています。具体的に遡及作業の専従者がいるというのではなく、まずシステム的にできることから始めようと準備しています。例えば、議会図書館のカード番号によって、OCLCからバッチ処理でデータを取り込む方法等を実験中とのことでした。こうしてまで書誌の整備を図る理由は、一つには主題検索の不備を第一に、蔵書検索システムの充実を図ることと、もう一つはここの図書館がオハイオ州におけるセンター館としての役割を期待されているということで、5年後を目標にした新ローカルシステムへの移行を意識しているようでした。現に、LCSの中には、オハイオ州立図書館、オハイオ歴史協会、研究図書館センターの蔵書も登録されており、州内の他大学もこれに参加の意向を示しているとのことでした。

 図書館の蔵書数は現在450万冊、キャンパス内の端末台数226台、内、利用者検索用107台、ダイヤルアクセス9ポートということですが、検索を実際に行ってみて、膨大なデータ量にもかかわらず反応は良くスーパーコンピュータの威力が発揮されているようでした。

 オハイオ訪問の一日を、OCLC見学に当てました。コロンバスから車で30分程度のダブリンという田舎町へ、オハイオ州立大学図書館に2ヶ月前に採用された音楽資料専門の図書館員と二人で研修ということで出掛けました。8千の図書館と接続し、書誌データ数1,800万件、所蔵データ数2億9千万件のデータを保有するOCLCは、外からは単なる工場としか写りません。建物は四階建てで、二階以上は、システムコントロール、データベース、通信機器とそれぞれ割り当てられ、内から見てもやはり工場のイメージで図書館とは結びつきません。四階から見学し、最後に一階まできて漸くその一角で遡及入力作業をしている現場に出会いました。図書館が抱える遡及入力という課題を事業として引き受け、80名程度のアルバイトを教育してカードからの入力を行っている風景でした。日本からも注文がきているとのことでした。OCLCは今や完全な事業体であり、当初オハイオ州内の各大学が目指した共同目録センターの域をはるかに越え、一個の巨大なデータベースとい物体に化してしまった感じを受けました。システムが巨大化してしまうとそこに存在した理念も薄れ、また、初めに戻ってオハイオのように人間的なローカルの繋がりを求めてシステムを作ろうとするのかも知れません。

おわりに

 短い旅行ではありましたが、行く前の準備、帰ってからの報告と私にとっては十分に長い旅となりました。その間、職場の皆様には大変御迷惑をおかけしました。また、この旅行に当たって多くの関係者のお世話をいただきました。拙い報告ですがお礼に代えさせていただきます。

[本稿は、「北大時報」418号(1989年1月号)に掲載されたものを著者の了解を得て再掲したものです。]