日露戦争時には、日本国内各地に捕虜としたロシア軍将兵の収容所が順次設置され、戦争末期には7万人を超える収容者があった。スラブ研究センター図書室は、最近、このうち姫路および福知山に設置された収容所に関する若干の資料を購入することができたので、ご報告したい。
姫路俘虜収容所は、松山および丸亀に続く3番目の収容所として1904年8月1日に開設され翌1905年12月28日に閉鎖された。福知山俘虜収容所は4番目の収容所として1904年9月9日に開設され、1906年1月6日に閉鎖された。いずれも下士卒のみを収容し、姫路収容所は陸軍1760名、海軍424名の計2184名を収容する、どちらかといえば大規模の、福知山収容所は陸軍390名、海軍1名の計391名を収容する小規模の収容所であった。
今回入手した資料は、それぞれ別個の古書店を経た2つの部分から成る。すなわちその第1部分は、写真帖2冊、絵葉書帖1冊、および収容所日誌6冊、「俘虜ニ関スル取調書」、「福知山収容所職員名簿」等18点の文書、書簡30通より成る。
追って別ルートより入手した第2の部分は、写真帖3冊、厚紙の台紙に貼った写真11枚、および書簡21通より成る。
いずれの部分についても、書簡の受取人はそのほとんどが田中昌太郎後備役陸軍中尉であり、その他の文書類、写真帖に関しても、全てが田中中尉の管理下にあった品と推定している。
本年1月29日より2月1日までセンターにおいて開催された国際シンポジウム『20世紀初頭のロシア・東アジア・日本:
日露戦争の再検討』に際して、写真展『捕虜となったロシア軍将兵:日露戦争の一断面』を1月28日〜31日の間開催したが、第1部分の資料をこれに展示することができた。
日露戦争時のロシア軍捕虜収容所に関しては、当時の陸軍省の手になる『明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末』(有斐閣書房、1907年)があり、また才神時雄『松山捕虜収容所』(中央公論社、1969年)などもあるが、個別の収容所に関する記録、文書、研究は決して多くなく、100年の歳月を経た現在、不明の部分が大きい。
今回入手した資料の所持者であった田中昌太郎は、福知山収容所の開設と同時にそこに着任し、翌1905年6月には姫路収容所に異動したが、この間一貫して収容所運営上キーパーソンの位置にあったと考えられる。
姫路および福知山収容所に関しては、これまで桧山真一氏による仕事「福知山俘虜収容所のロシア人下士官の手記」(『共同研究日本とロシア』(早稲田大学安井亮平研究室、1987年)所収)および「俘虜と製革:姫路のポーランド人ミハウ・ムラフスキ」(同第3集、一橋大学中村喜和研究室、1992年所収)があるが、今回入手した資料が今後の研究の発展に資するよう、逐次、解題・翻刻等を進める予定である。
ロシア外務省関係資料の購入 [no. 94 (2003.7) より]
スラブ研究センター図書室は、このほど、次の3点の資料のマイクロフィッシュ版を購入したので、ご報告したい。
①Ежегодник Министерства иностранных дел. год 1 (1861) -53 (1916)。ただし год 7-8 (1867-1868) および год 47 (1910) を欠く。 ザイオンチコフスキーの Справочники по истории дореволюционной России. Изд. 2-е(М.,1978) によれば、 後者は大臣の命令により破棄され出版されなかったという。 このタイトルが付くようになったのは途中からであり、 当初は仏語で、 Annuaire diplomatique de l'Empire de Russie .と題された。 Год39(1902) までは仏文、以後は露文。 内容は、皇族リスト、政府首脳部人名表、外務省中央および在外公館に勤務する幹部職員表、 在露外国公館リスト、勅令等の関係主要法令、予算、省内規定、対外条約・協定等の資料から成る。帝政ロシアの外交関係に関する基本史料として役立つものであろう。
②Известия Министерства иностранных дел. [г.1] кн. 1. (1912) - г. 6. кн. 1/2. (1917).隔月刊の本誌は、ロシアの締結した条約類、対外関係に関係するロシアの法令類、 その他の資料(外務大臣の国会演説など)、領事報告、および関係論文を収録する非公式部分から成る。 わずか5年余りしか刊行されなかったのが残念だが、①と並ぶ当時のロシア外交に関する基本史料として 位置づけられよう。ただし、前述のザイオンチコフスキーの本には載っていないようである。
③Сборник Московского главного архива Министерства иностранных дел. Вып. 1
(1880)- 7 (1900)_外務省文書館に保管される文書を多数紹介する。また Вып.1の最初の部分には、文書館の所蔵する
文書の概要を述べたフランス語の論文がおかれている。なお、この文書館の所蔵史料は、 ロシア革命後の転変を経て、現在はロシア帝国外交文書館Архив внешней
политики Российской Империи, 略称 АВПРИ に収蔵されている。
ロシア在外歴史文書館 Русский заграничный исторический архив в Праге は、1923
年にプラハに設立された、ロシア人亡命者に関する資料センターである。 文書館には、文書部 отдел документов と並んで刊本部 отдел
печатных изданий および新聞部 газетный отдел
が設けられ、ロシア革命前および革命後の両方について、在外ロシア人に関する資料の最も包括的なコレクションがここに形成された。
1945 年 5
月にヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結してまもなく、ソビエト連邦とチェコ政府との交渉によりロシア在外歴史文書館は解体され、収蔵資料の多くは、ソ連邦科学アカデミーに寄贈するという名のもと、ソビエト側に引き渡されることとなり、文書資料の多くは十月革命中央国家文書館
ЦГАОР (現在のロシア連邦国家文書館 ГАРФ)
に搬入された。しかし、刊本部および新聞部の収蔵資料はその対象外とされ、大部分がプラハのスラヴ図書館に保管された。
ただし、その存在は公表されないままにおかれ、公開には 1991
年を待たなくてはならなかった。
今回図書室が購入したのは、プラハのチェコ国立図書館の一部であるスラヴ図書館に現存する、ロシア在外歴史文書館刊本部および新聞部のカード目録を撮影して製作したマイクロフィッシュである。
図書の部 82 枚、雑誌の部 22 枚から成り、各フィッシュは、縦 18 コマ、横 28 コマづつ目録カードを収録する。 新聞の部は、163
枚から成り、各フィッシュの収録コマ数は、縦 13、横 16 である。
図書の部は、革命前から戦間期にかけてロシア・ソ連邦内外で出版された約 4
万タイトルの資料を目録している。 タイプ打ちの部分もあるが、手書きの方が多い。
新聞の部は、ほとんど手書きであり、ところどころ判読困難な部分があるものの、各号の受入記録が付いた完全なものであり、それ自体亡命ロシア人研究の基本資料として意義深い。
16・17
世紀ロシア出版物集成
[no. 92 (2003.1) より]
スラブ研究センター図書室は、上記のマイクロフィルムセットを購入することとなり、現在、大学本部において購入手続き中であることをお知らせしたい。
このフィルムは、А.С. Зернова の編集した総合目録 Книги
кирилловской печати, изданные в Москве в XVI - XVII веках: сводный каталог
(Москва, 1958) に基づいて、レーニン図書館 (現ロシア国立図書館) 等の蔵書を撮影して製作されたものである。
従って、ヴィリニュスやリヴォフ、オストロークなどでの出版物は含まれない。 付録してきたリストを見た限りでは、書誌に掲載された資料 500 点余の資料のうち、10
点余りの例外を除いて、ほとんどの資料を収録していて、リール数は 320 を超える。 これは、もともとは、General Microfilm
Publications 社によって製作・販売されたが、現在は Norman Ross 社が販売しているものである。
国内で、このマイクロフィルムのセットを所蔵するのは、おそらくこれが最初であろう。
これとは別に、スラブ研究センターは、18
世紀ロシア出版物集成を収集中であり、今回の購入によって、モスクワで出版が開始されてから、18
世紀に至るまでのロシアの出版物ののかなりの部分をセンターにいながら利用できるようになった。
Copyright (C) 2002 Slavic Research Center, Hokkaido University