もう一冊のクラーク聖書


                文学部教授  土屋 博


 1876(明治9)年8月W.S.クラークが札幌農学校に赴任したとき,
英語訳旧・新約聖書(Authorized Version)30冊を携
えており,やがて時期を見て(おそらく10月頃),第一期生全員にそれぞ
れの氏名を記入して分け与えたことはよく知られている。この出来事は,翌
年の「イエスを信ずる者の誓約」とともに,日本キリスト教史におけるいわ
ゆる札幌バンドの原点として伝説化されるに至った。30冊の聖書は,クラ
ークが横浜上陸後自ら聖書会社へ出向き,二三のやりとりののち購入したも
のだという話は,内村鑑三の講演に由来し,逢坂信●(注:●は「大漢和辞
典/諸橋轍次.−大修館書店」のコード10355の文字)によって若干の
修正を加えられた上で,一般に流布されているが,今日では,多少事実と異
なるのではないかと考えられる。クラーク自身の妻あての書簡には,「L.
H.ギュリック博士が私を訪ねてきて,私に札幌の生徒用にと英語聖書30
冊を呉れました。彼はアメリカ聖書協会の中国と日本担当の代理人です」と
記さているからである(太田雄三『クラークの一年』昭和堂,1979年,
63ページ)。このギュリックおよび彼の家族とクラークとは,翌年再び会
っているので,聖書贈呈に関する書簡の記述は確かであると思われる。また,
学生たち一人一人の名前をクラークが書き入れたということは,大島正健に
よって伝えられてきたが,帰国後のクラークが行なった講演の新聞報道にも
同様の記述が見られるので,間違いなく史実であろう。
 その後これらの聖書がどうなったかは興味のあるところであるが,残念な
がら現在大半が行方不明である。従来わずかに佐藤昌介のものが北海道大学
附属図書館北方資料室に保存されているほか,大島と柳本通義のものが札幌
独立キリスト教会にあるのみであった。ただし,このうち大島のものにおい
ては,表紙が紛失しているため,クラークの手による氏名の記入は見られな
い。聖書のいたみ具合から持ち主の信仰生活をおしはかることはできないし,
持ち主の変化も考慮に入れなければならないが,大島のものがほとんどばら
ばらに分解しているのに対して,柳本のものはあまり使用されていないこと
がうかがわれる。佐藤のものはほどほどに読まれているようである。
 さて,こうした状況の中で,このたび偶然のきっかけから,もう1冊のク
ラーク聖書が北方資料室の蔵書に加えられることになった。それは元来,や
はり第一期生である黒岩四方之進に与えられた聖書であったが,種々の経緯
で神田稔(理学部卒,函館在住)の手に渡り,筆者が仲介役となって氏から
寄贈されたものである。目下判明している限りでの入手経路をさかのぼると,
この聖書は1962(昭和37)年頃,日本聖公会札幌キリスト教会から古
書店南陽堂へ売りに出された大量の書籍にまざっていたらしく,当時北海道
大学キリスト教青年会汝羊寮の寮生であった浅海護(法学部卒,札幌在住)
がそれを店頭で見つけて購入し,所有することになった。その後同じく汝羊
寮生であった伊藤義彦(農学部卒,静岡県在住),さらに神田が受け継いだ
が,彼らがこの聖書の由来を正確に理解していたかどうかは定かではない。
浅海と神田は表紙裏に自らの署名を書き記しているが,これは,クラークの
書いた黒岩四方之進の名前を黒岩自身の署名とみなし,その形式にならった
ものではないかと思われる。しかし,前述のように,クラークが書き記した
ことには証言があるし,佐藤・柳本両氏の名前に本人では考えにくい小さな
誤記があることも,その間の事情を示唆する。また,「イエスを信ずる者の
誓約」に見られる黒岩自身の署名は,聖書のものとは異なっている。
 元来の所有者であった黒岩四方之進という人物については,いくつかの伝
説が残されており,逢坂信●(注:●は「大漢和辞典/諸橋轍次.−大修館
書店」のコード10355の文字)によって若干の『クラーク先生詳伝』
(クラーク記念会,1956年,202ページ)には晩年の写真ものってい
るが,詳しい伝記的事実は今のところ不明である。一説によれば,1929
(昭和4)年6月27日没と伝えられる。札幌独立キリスト教会の会員名簿
には,最初期の会員として名をつらねているが,そこには生没年は記されて
いない。彼は東京でクラークによって選ばれた札幌農学校第一期生10名
(大島による 逢坂では11名)の中の一人で,内田静とともに東京帝国大
学の前身である開成学校から移ってきた。土佐出身で,クラークから「土佐
ボーイ」と呼ばれて可愛がられたと伝えられる。相当荒っぽい気性であった
らしく,北海道へ向かうさいに玄武丸の甲板上であばれ,開拓長官黒田清隆
の怒りをかっている。
 札幌農学校在学中の黒岩の人となりを示す最も有名な出来事は,クラーク
に引率された雪の手稲山登山であった。大島の伝えるところによれば,18
77(明治10)年1月30日一行14名は深い雪につつまれた手稲山にい
どみ,山頂近くで大樹に付着した地衣を発見した。クラークは級中で一番背
の高かった黒岩をさし招き,自分は雪の上に四つん這になり,背中にのって
地衣をとるように命じた。黒岩はちゅうちょしながら靴をぬごうとしたら,
さらにそのままのれと言われ,やむをえず土足でクラークの背にのり地衣を
とったという。「三尺下がって師の影をふまず」という儒教道徳で教育され
ていた当時の日本人学生にとって,これはきわめて衝撃的な出来事であった
らしく,黒岩自身ものちのちまでこのことを語っていた。しかし,アメリカ
人クラークはおそらくそのような反応を予想せず,地衣の標本を作ることで
頭が一杯になっていたに違いない。行為者の意図とそれを受けとる側の感覚
との間のずれが,新しい文化の形成に刺激を与えていくひとつの例がここに
見られるように思われる。
 札幌農学校第一期生のうち幾人かは,卒業後もしばらくの間札幌の山鼻で
共同生活を営んでいた。黒岩もその一人であったが,郷里から母親をよびよ
せたこともあって,他のメンバーが独立したのちに,耕地ともども譲り受け
ることになったらしい。札幌独立キリスト教会会員名簿にも,母ノブの名前
が記されている。その後の黒岩の活動についての詳しいことはわからないが,
大島は次のように語る「札幌農学校卒業後黒岩は,新冠御料牧場長の職を承
って畜産界に大きな足跡を残し,退官後は日高国直別に一大農場を経営して
村民から直別の聖人とあがめられた。私達六人組の一人として信仰を全うし
た彼は真に敬愛すべきクリスチャン・ゼントルマンであった」(大島正健
『クラーク先生とその弟子たち』改訂増補版,教文館,1993年,107
ページ)。
 黒岩についてもうひとつ注目すべき事実は内村鑑三との関係である。内村
は『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』の中で,「パタゴニア人のK」
という渾名で黒岩に言及している。パタゴニア人は南米南部の先住民で,黒
岩は身体が大きかったためこのように呼ばれたのであろう。1897(明治
30)年,内村は『万朝報』に入社し,ジャーナリストとしての華々しい活
躍が始まるが,そのきっかけを作ったのが黒岩であると伝えられる。『万朝
報』は1892(明治25)年黒岩涙香によって創刊された新聞であるが,
その涙香の実兄が四方之進であった。悪評高い『万朝報』の涙香に感化を与
えるため,四方之進が内村に入社を依頼したという説もある(鈴木範久『内
村鑑三目録・ジャーナリスト時代』教文館,1994年,16ペ−ジ)。1
901(明治34)年内村来札の折には,それまで都会の人間と交遊を断ち,
新冠の御料牧場で馬を相手に生活していた黒岩も,札幌に出てきて感話を述
べた。逢坂によれば,内村は「多分黒岩が一番僕の心の深いところを知って
いてくれるであろう」と語っていたと言われる(逢坂,前掲書,同ページ)。
さまざまな領域で社会的活動を繰りひろげた札幌農学校卒業生のなかにあっ
て,黒岩は人に知られることなく,きわめて地味で真摯な一生を送ったよう
に見受けられる。札幌農学校から北海道大学へと受け継がれた「大志の系譜」
のうちには,このような人物もいたことを記憶しておきたい。
 大島は黒岩の死を知っていたらしいが(大島,前掲書,247ぺージ),
その晩年がどのようなものであったかを伝えてはいない。黒岩の所有する聖
書がなぜ日本聖公会の教会にあったのかも,現在ではわからない。しかし,
1960年代からほぼ30年の間,黒岩の同期生佐藤(北海道帝国大学初代
総長)が命名した「汝羊寮」の寮生たちによって,それが大切に保管されて
きたことには,奇しき因縁(キリスト教的に言えば摂理)を感じる。この3
0年は,筆者が汝羊寮で卒業を迎えてから今日までの期間とも一致する。
 
                     (つちや ひろし)
 

 

    クラーク博士の学位論文(複製)
      が寄贈されました


 W.S.クラーク博士のゲッチンゲン大学学位論文(複製)が,7月3日
(月)に来学した博士の伯父の5代目に当たるマサチューセッツ工科大学教
授のジョージ W.クラーク博士から寄贈されました。1852年に書かれ
たこの論文は,「ON METALLIC METEORITES」と題し
た隕石に関するもので,当時としては最新の学問であったということです。
 附属図書館では蔵書とすることにしました。   

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