楡蔭と今村成和先生、図書館電算化と山田常雄課長

元附属図書館長(名誉教授) 大野公男

附属図書館報「楡蔭」の100号が刊行されるという。記念すべき機会であり、お目出度いことである。
「楡蔭」の第1号は、1967年1月に刊行されているから、それから31年余の時間が流れたことになる。その間1969年には、全国的に吹き荒れたいわゆる大学紛争に際し、附属図書館も4か月に亘って封鎖されるという異常事態も発生している。この30年は決して短い歳月ではなかった。
さて「楡蔭」はどういう目的で誕生したか。当時の附属図書館長今村成和先生は「発刊の辞」において、沿革から説き起こして、その趣旨を次のように述べておられる:

“(前略)北海道大学附属図書館の歴史は、遡れば、明治9年札幌農学校の設立に際し「書籍室」を設けたことにはじまるが、現在、全学の蔵書数は百万冊をこえ、また、本館の建物は、全国立大学中でも、とび抜けた規模と、最新の設備を有するものとなっているのである。このように、歴史において古く、施設としてすぐれた本学附属図書館がそれにふさわしい図書館活動を展開しているかというと、そこにはなお多くの問題が残っているように思われる。(中略)いうまでもないことであるが、図書館施設は、いわば、全学の共同財産であり、本学において教育研究に従事する職員学生のために、もっとも有効に、その機能を発揮しうる仕組みとなっていなければならぬ。(中略)この「楡蔭」が全学にひろく散在する図書関係機関の連絡を密にし、かつ、図書館と利用者をつなぐ太いきづなとして発展することを期待して、この小文の結びとしたい。”
今村先生は1965年から6年間附属図書館長を務められた後、1975年に学長に就任された。学長在任中の1980年に大型計算機センター10周年記念式が行われたが、その「学長祝辞」の中で図書館の電算化に触れられている:
“(前略)話が個人的なことになって大変恐縮なのですが、私は、当センターの設立の当初いささかそのお手伝いをいたしました。記録によりますと、1967年3月の評議会で、北海道大学大型計算機センター(仮称)設置準備調査委員会の設置が決定したとありますが、当時私は附属図書館長として評議員になっていました。図書館長としては、図書館業務の機械化に関心をもっておりましたので、早速私の所属学部であった法学部長に頼んで、学部推薦の委員にしてもらいました。(中略)先に書きましたように、私の最初の関心事は、図書館の機械化との関係にあったのですが、間もなく、当面それは期待できないことが判りました。設置の目的がちがうし、ドラムの容量からいっても、そういう仕事には適さない、ということでありました。
ところが、最近になりまして、文部省の学術審議会から、今後における学術情報の在り方についての答申(1980年1月29日)がありましたが、そこでは情報検索システム確立のために、大型計算機センターと大学附属図書館は、協同して、大きな役割を担う必要のあることが指摘されています。(後略)“

先生の指摘された方向への北海道大学の動きは、1981年7月「北海道大学学術情報システム準備検討委員会」の第1回の会議が開かれて始まることになる。この委員会の下には、同年10月「図書情報専門委員会」と「データベース専門委員会」が設けられ、さらに1985年夏には、「地域ネットワーク専門委員会」が追加設置された。先行した2専門委員会の最終報告は、「北海道大学における学術情報システムの具体化について I」として1986年2月有江学長に答申された(楡蔭72号に収録)。「検討委員会」の委員長は、代々の図書館長、故塩谷尭先生、東晃先生、そして私が、勤めることになる。
こういう背景の下で、今村先生から数えて6代目の附属図書館長に1985年4月1日に任命された私の初仕事は、図書館に導入する計算機システムの導入であったが、これについては同時に着任した故山田常雄学術情報課長の貢献が極めて大きい。この山田課長の陣頭指揮により、86年4月から、端末100台を備えた、当時としてはまさに画期的なシステムが稼働を開始した。山田課長は87年10月東工大附属図書館に転任、その1年後に47歳の若さで逝去されてしまった。88年1月に、このシステムの“こころ”を知りたいとの問いを同課長に発したのに対する返事の抜粋が以下の5項目である:
1.全学ネットワークをリアルタイム処理の採用によって実現したこと(他大学、センターはTSS)
2.設計当初から利用者の検索を中心にし、ローカルな目録作業と有機的に統合したこと(他大学は目 録ファイルと利用者ファイルの2重構造)
3.図書検索を目標にし、誰にも余計なマニュアルなしで使用できる単純化に成功したこと(他大学は マニュアルが「冊」のなっています)
4.システム作りのみでなく、データ作成のシステム(体制)までを短期間に完了したこと
5.コンピュータ資源の極めて有効な使用(CPU稼働率80%前後で運用しているバランスの良さは 他に例がない)
遡及入力は難題中の難題であるが、この端末台数を持ったシステムの安定した稼働、全学のバックアップ、さらに学術情報センターの協力のお陰で、86年から10余年を経た今日でも、遡及入力では北海道大学は全国のトップを走っていると言えよう。
話は少々遡る。1990年7月、附属図書館館報“楡蔭”80号の冒頭には、今村先生の“楡蔭80号の発刊に寄せて”が掲載された。その一部を引用する:
“(前略)1987年3月20日付けの、飯田正一委員長の下でまとめられた「北海道大学図書館将来計画中間報告」(楡蔭No72)は、その冒頭に「大学図書館改革への途(1970,楡蔭Ex.ed.)」の文章を引用して、そこには「『大学改革の目標は、研究と教育の場としての大学が、その社会的使命を達成するための方途を追求することにあり』、『大学図書館の改革は大学の共有財産である図書が、学問を志すものの総てに開放され、利用されることに役立つ図書館を作り上げてゆくことにあり』」と述べられている。そして「図書館近代化の主役は電算機にあることを示唆している」ことをを指摘し、「爾来北海道大学の図書館電算化は着実にその歩を進めている。」としてその成果に基づく図書館の将来計画を示している。20年前には一つの夢に等しかった図書館業務の全面的電算化の時代が遂に到来し、それに基づく将来計画の中で改めてこの文章が想起されることになろうとは、私としては思いも寄らぬことであった。
それと共に楡蔭72号には、当時の大野公男附属図書館長がこの中間報告について述べた文章が載せられているが、その中で特に印象が深かったのは、「附属図書館の責任者の立場から見て、特に重要と思われる点(の)第一は附属図書館が人文・社会系研究・学習図書館としての機能を果たすことが期待されているということを図書館委員会として初めて明示したことである。この構想は遠く昭和41年に今村元図書館長の「報告書」の中に現れて以来、図書館の基本構想の一つされながら、私の知る限り図書館委員会の”認知“を受けることなく経過してきたものである。私としては、この中間報告にあるように、文系学部等の御提議に基づき、その研究・教育の特性に応じた最適の条件を整備して、資料の移管と業務の統合を果たしたいものだと念願している。」と記されていたことである。
しかし実をいうとこれは、新図書館建設の動機でもあったもので(楡蔭1−5,横山尊雄「北海道大学付属図書館改築の経緯について」参照)、私の館長就任に際し先ず直面したのもこの問題であった。(中略)
大野前館長は又、図書館将来計画中間報告の中で「特に重要と思われる点」の「第二は理系分館の設置という計画が初めて提案されたことである。」と指摘されている。これも改革検討報告(図書館に関すること、1973)の中では、「主として自然系について考えられる専門分野別図書館については、これを究極の目標」とするにとどまっていたもので、ここにも10数年の歳月の隔たりがある。”
ながながと今村先生の書かれた文章から引用させていただいたが、先生が送って下さった楡蔭80号の別刷には、“図書館の今日のお仕事の中で、古くは20年余の昔に遡る私の館長時代のことを思い出していただきましたことは、私にとって何よりも嬉しく有難いことでございました。これはその気持ちの一端を記したものです。”との暖かいお手紙が添えられていた。
この“楡蔭80号の発刊に寄せて”は以下の文章によって締めくくられている。さらに7年半の歳月が流れ去った現在であるが、私にはこれ以上のまとめの文言はとうてい考えつきそうもないので、そのまま引用させていただこう。
“創刊以来今日に至るまでの「楡蔭」の記事は、20数年(現在では31年)来の一貫した図書館改革の流れが、近時とみにその勢いを増している事実をよく示しているように思われる。願わくは、図書館と共にその勢いを今後も永く続けられんことを期待してやまない次第である。”

記:附属図書館情報サービス課課長補佐宇野弘純氏は、数多くの資料を貸与、参観する便宜を供与して下さった。ここに記して厚く御礼を申し上げる。

(おおの きみお,北海道情報大学経営情報学部教授)



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