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『千夜一夜物語』以外でアラブ文学を読んだという人は、おそらくごく少数だろう。現代アラブ文学と聞いてもおそらく作家名もイメージも思い浮かばないと思う。かく述べる僕自身も、自分がエジプトに赴任するまでそれらについては全く知らなかった。ここに挙げる『バイナル・カスライン』とその著者ナギーブ・マフフーズについてもエジプトに行ってから周囲の同僚や学生たちに教えられて知ったのだが、その当時既にこの本を含む「現代アラブ小説全集」は刊行されていた。マフフーズは、アラブ世界初のノーベル文学賞受賞者(1988年)であり、僕がカイロにいたときにはまだ存命していて新聞に精力的にコラムなどを書いていた。
この小説は、現在世界遺産になっているカイロ旧市街(イスラミック・カイロとも言われている)のバイナル・カスライン通りに住む商店主のアフマドとその妻、3人の息子、2人の娘の家族の生き方を描きつつそこにサアド・ザグルールとワフド党のエジプト独立運動という1917年前後の激動の歴史を絡めた大河小説である。家庭内では厳格に家族の上に君臨する父親でありながら裏では女遊びがやめられない因業なアフマドと、その夫にひたすら仕える後妻、反発しつつも父親と同じような人生を歩んでしまう長男、エジプト独立運動に身を投じる次男、エジプトを統治するイギリス人との間に友情を芽生えさせる利発な三男、そして娘たち、周囲の人々の運命が絡まり合いエジプト独立運動を背景に一気に結末へと突き進んでいく。上下二巻の大冊であり、最初のうちは、くどくどしいとさえ思われる心理描写や比喩に読みづらさを感じるかもしれないが、下巻に入ってサアド・ザグルールがエジプト独立を要求するあたりからストーリーは急展開しはじめ、読むのがやめられなくなるだろう。訳者の塙治夫氏は今年亡くなられたが、生前のインタビューでこの翻訳に対する日本人読者の反応について「一言でいえば『失望』です。」と慨嘆していらした。本当にそうした反応しか得られない作品であるかどうか是非読んで確かめられたい。この作品は、読者をマフフーズだけでなく現代アラブ文学に誘う扉となると信じている。
なお、この標題となっている「バイナル・カスライン」通りは現在ではムイッズ通りという名前に変わっていて、世界遺産登録後は観光地区としてかなり整備されたらしいが、僕が行ったときには古い街並みの中に生活感とエネルギーが渦巻くわくわくするようなエリアだった。もしカイロを訪れる機会があったら足を運んでみることをお勧めする。 |